乙巳の変 (いっしのへん)
【概説】
645年(皇極天皇4年)、中大兄皇子や中臣鎌足らが飛鳥板蓋宮において蘇我入鹿を暗殺し、翌日に父の蘇我蝦夷を自害に追い込んで蘇我氏本宗家を滅ぼした政変。これを契機として、古代日本を唐の律令制に倣った強力な中央集権国家へと作り変える一連の政治改革「大化の改新」が始まることとなった。
蘇我氏本宗家の専横と権力集中
6世紀後半以降、仏教の受容や王権の運営をめぐって物部氏などの有力豪族を打ち倒した蘇我氏は、天皇の外戚として朝廷内で絶大な権力を握るようになった。蘇我馬子、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)と三代にわたって権力を世襲した蘇我氏本宗家は、次第に天皇の権威をも凌ぐほどの振る舞いを見せ始めた。
とくに蘇我入鹿は、自らの権力基盤を盤石なものとするため、643年に次期天皇の有力候補であった聖徳太子(厩戸王)の皇子である山背大兄王を一族もろとも斑鳩宮に襲撃して自害に追い込んだ。この強引な権力集中と専横は、天皇家や他の有力豪族たちの間に強い反発と危機感を生み出すこととなった。
緊迫する東アジア情勢と反体制派の結集
乙巳の変を理解するうえで欠かせないのが、当時の緊迫した東アジアの国際情勢である。7世紀前半、中国大陸では唐が建国され、強大な帝国として周辺諸国への圧力を強めていた。これに対し、朝鮮半島では高句麗で淵蓋蘇文がクーデターを起こして実権を掌握し、百済でも政変が起こるなど、各国は国家体制の強化と権力集中を急いでいた。
このような激動の国際情勢のなか、日本でも唐の脅威に対抗しうる強力な中央集権国家の樹立が急務となっていた。飛鳥の法興寺で行われた打毬(蹴鞠)をきっかけに接近した中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)は、蘇我氏本宗家による独裁を打破し、天皇を中心とした新たな国家体制を築くための暗殺計画を密かに練り始めた。彼らは、蘇我氏の同族でありながら本宗家と対立していた蘇我倉山田石川麻呂らを味方に引き入れ、周到な準備を進めた。
飛鳥板蓋宮での暗殺劇
645年(乙巳の年)6月12日、皇極天皇が臨席する飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)の大極殿において、三韓(高句麗・百済・新羅)からの使者が貢物を献上する「三韓の調」の儀式が執り行われた。中大兄皇子らは、この外交儀式の場を暗殺の舞台として選んだ。
儀式の最中、蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げている隙を突き、中大兄皇子自らが先陣を切って飛び出し、佐伯子麻呂らとともに蘇我入鹿に斬りかかった。天皇の面前での刃傷沙汰という前代未聞の事態に宮廷は恐慌をきたしたが、中大兄皇子が皇極天皇に「入鹿は皇族を滅ぼし、皇位を奪おうとしております」と正当性を訴えると、天皇は奥へと退避した。入鹿はその場で惨殺された。
翌13日、入鹿の父である蘇我蝦夷は、自らの邸宅である甘樫丘の居館に火を放ち自害した。これにより、長きにわたって朝廷で権勢を誇った蘇我氏本宗家は滅亡した。なお、蘇我倉山田石川麻呂をはじめとする蘇我氏の分家はその後も新政権に参画しており、この事件が「蘇我氏一族全体の滅亡」ではなく、あくまで「本宗家の打倒」であったことは歴史的に重要な事実である。
大化の改新への移行と歴史的意義
乙巳の変の直後、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し(孝徳天皇)、中大兄皇子は皇太子となって政治の実権を握った。新政権は日本で初となる元号「大化」を定め、翌646年には「改新の詔」を発布した。これにより、公地公民制の導入や新たな行政組織の整備など、律令国家を目指す大化の改新が本格的にスタートすることとなる。
乙巳の変は、単なる権力闘争や豪族の排除という枠に留まらず、古代日本が豪族たちの連合体から天皇を中心とする官僚制中央集権国家へと脱皮するための決定的な転換点であった。このクーデターが成功したことで、日本は唐の律令制度を積極的に受容し、独立した国家としての基盤を確立していく道を歩み始めることとなったのである。