乗田 (じょうでん)
【概説】
律令制下の班田収授において、口分田などの諸田を班給した後に残った余剰の公田。国家の管理下に置かれ、農民に1年期限で貸し出す「賃租(ちんそ)」の対象とされた土地である。
乗田の発生と律令制の土地支配
律令国家は戸籍に基づき、6歳以上の男女に口分田を班給する班田収授の法を施行した。この際、国内のすべての田地が口分田や位田、職分田などの制度的な田地として過不足なく割り当てられるわけではなく、班給後に必ず余剰が生じた。この余った田地のことを乗田(じょうでん)と呼ぶ。
乗田は、次の班田(原則6年に1度)において、人口増加や新たな受給者(受田者)に対応するための「調整池」としての機能を持っていた。国家にとっては、土地と人民を一元的に支配する公地公民制を維持するための予備地としての性格を有していた。
賃租による経営と財政的意義
乗田は放置すると雑草が生い茂るなどして荒廃してしまうため、国家はこれを賃租(ちんそ)という形で民衆に貸し出した。賃租の期間は原則として1年間であり、耕作を希望する農民(主として口分田だけでは生活を維持できない貧困農民や、労働力に余裕のある富裕農民)に割り当てられた。賃租した農民は、小作料にあたる地子(じし)を国に支払う義務を負った。
この地子は収穫の5分の1(2割)という高率であり、通常の口分田に課される「租」(約3〜4%)に比べて極めて重い負担であった。徴収された地子は、当初は国衙(地方官庁)の運営経費(国用)に充てられたが、のちには中央への送付も行われるようになり、国家や地方の重要な財政補填源として機能した。
律令制の弛緩と乗田の変容
奈良時代後期から平安時代にかけて、人口の増加や浮浪・逃亡の増大によって班田収授が徐々に停滞・途絶すると、乗田の性格も大きく変化した。口分田の不足を補うために乗田が口分田へ流用される一方で、班田が機能しなくなった地域では、乗田は実質的に国司が直接管理・支配する広大な「公田」へと固定化されていった。
これらは平安時代に入ると、国司が国内の財政を維持するために経営する「公営田(くえいでん)」や「官田(かでん)」の母体となり、律令制的な土地支配の解体と、それに代わる王朝国家体制(国司請負体制)への移行を促す一因となった。