庸 (よう)
【概説】
律令制下において、成年男子(正丁など)に課された主要な税(課役)の一つ。都での年間10日間の労役である「歳役」の代償として、布(庸布)などを中央朝廷に納入した制度。
律令財政における庸の仕組みと役割
大宝律令(701年)の制定によって体系化された日本の律令制において、租・調・庸は庶民(公民)に課された三大税制であった。このうち「庸」は、主に21歳から60歳までの成年男子である正丁(せいてい)を対象とした人頭税である。本来は都に上って年間10日間の労働に従事する歳役(さいえき)が原則であったが、実際にはその労働に代えて、一定規格の布(庸布、2丈6尺)を納める代納が一般的となった。なお、17歳から20歳の中男(ちゅうなん)に対する庸は原則として免除されていた。
地方の農民から徴収された庸は、同じく物納である「調」とともに平城京などの都へと送られた。地方官衙(国衙)の経費や備蓄に回された「租」とは異なり、庸は中央政府の財政を直接支える財源であり、官人(貴族や役人)への給与(季禄など)や、都での造営事業の経費として消費された。また、布以外にも、地方の特産品に応じて米や塩、木綿(ゆう)などで代納されることもあり、中央集権的な国家体制を維持するための不可欠な経済的基盤であった。
運脚の悲惨な負担と律令体制の崩壊
庸と調の最大の特徴であり問題点でもあったのは、これらを都まで直接運搬する義務が、納税者である農民自身に課されていた点である。この運搬人を運脚(うんきゃく)と呼ぶ。運脚は自らの食糧(道糧)を自弁して、徒歩で険しい旅路を往復しなければならなかった。この負担は農民にとって極めて重く、道中での行き倒れや飢死、さらには都に到着したのちの本籍地への逃亡や、戸籍を偽る「偽籍」、浮浪化する者が相次いだ。
奈良時代後期から平安時代初期にかけて、このような農民の窮乏化と逃亡は深刻化し、戸籍に基づく班田収授の原則は機能しなくなった。課税対象となる正丁(男性)が激減したため、朝廷は庸や調の徴収が著しく困難となり、律令財政は破綻に直面した。その結果、10世紀頃の平安中期には、人頭税である従来の租調庸体系から、土地(名田)を基準として課税する官物(かんもつ)や臨時雑役(りんじぞうえき)を中心とした新たな支配体制(王朝国家体制)へと大きく転換していくこととなった。