富本銭 (ふほんせん)
【概説】
7世紀後半、飛鳥時代の天武天皇の治世下に鋳造された日本最古級の銅銭。1999年に奈良県の飛鳥池遺跡から大量に出土し、「和同開珎が日本最古の貨幣である」というかつての定説を大きく覆した。律令国家の形成過程における、国家による貨幣発行権掌握の試みを示す極めて重要な史料である。
飛鳥池遺跡での大発見と定説の転換
長らく日本の歴史教育においては、708年に鋳造された和同開珎が「日本最古の貨幣」であると教えられてきた。富本銭自体は江戸時代からその存在を知られており、長野県や奈良県の遺跡からわずかに出土することもあったが、当時は実用的な貨幣ではなく、宗教的な儀式などに用いられる厭勝銭(えんしょうせん:まじない用の銭)に過ぎないと考えられていた。
しかし、1999(平成11)年に奈良県の飛鳥池遺跡(あすかいけいせき)の発掘調査において、鋳造に用いられた鋳型や鞴(ふいご)の羽口、バリ(鋳造時の金属の出っ張り)のついた未製品などとともに、大量の富本銭が発見された。これにより、飛鳥池遺跡に国家的な規模の公的な鋳造所が存在し、富本銭が本格的かつ計画的に生産されていたことが証明され、「和同開珎最古説」という日本史の常識は大きな転換を迫られることとなった。
『日本書紀』の「銅銭の詔」と天武天皇の国家構想
富本銭の鋳造は、『日本書紀』の記述と密接に結びついている。天武天皇12(683)年の条には、「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」という詔(みことのり)が記されている。この詔に登場する「銅銭」こそが富本銭を指すというのが現在の日本史学界における有力な見解である。
当時、日本国内では渡来人らを中心にある種の計量銀貨である無文銀銭(むもんぎんせん)が私的に流通していた。天武天皇は、飛鳥浄御原令の編纂や八色の姓(やくさのかばね)の制定など、唐の制度に倣った強力な中央集権体制(律令国家)の構築を推し進めていた。国家が規格を定めた計数貨幣である「銅銭」の強制的な発行と流通の試みは、国家権力の象徴としての貨幣発行権を朝廷が独占しようとする、極めて政治的な意味合いを持った政策だったのである。
独特な意匠と用途をめぐる「流通か、まじないか」の論争
富本銭の形状は、中国の伝統的な貨幣に倣った円形方孔(丸い外形に四角い穴)である。孔の上下には「富夲(富本)」の文字が刻まれ、左右には七つの点が星を表す七曜文(しちようもん)が配置されている。「富本」という言葉には「国や民を富ませる本(基本)」という政治的理念が込められ、七曜文は陰陽五行思想に基づく宇宙観や国家安泰の願いを象徴していると考えられている。
飛鳥池遺跡での発見により富本銭が公的に大量鋳造されたことは確定したものの、それが実際に市場で「流通貨幣」として広く使われたかについては、現在も激しい議論が続いている。広く決済に用いられたとする説がある一方で、全国的な遺跡からの出土例がまだ少ないことから、藤原京の造営に携わった官僚や労働者への恩賞・給与として局地的に配られたとする説や、依然として地鎮などの宗教儀式に用いられた厭勝銭であったとする慎重な見方も根強く残っている。
日本貨幣史における位置づけと和同開珎への道
富本銭が当時の社会経済においてどの程度流通したにせよ、日本において国家権力が主導して独自の金属貨幣を創出しようとした最初の本格的な試みであったという歴史的意義は揺るがない。富本銭の段階では全国的な貨幣経済の浸透には至らなかったが、ここで培われた鉱石の採掘・精錬・鋳造の技術や、貨幣を通じた国家支配という理念は、続く8世紀初頭の大宝律令の制定と、和同開珎の本格的な発行・流通へとダイレクトに結びついていくのである。富本銭は、古代日本の国家形成史と貨幣経済の黎明期を読み解く上で欠かせない、一級の歴史的遺物である。