白鳳文化 (はくほうぶんか)
【概説】
飛鳥時代後期にあたる7世紀後半から8世紀初頭にかけて花開いた日本の文化。天武天皇・持統天皇の時代に最盛期を迎え、唐の初期(初唐)文化の影響を受けた、若々しく大らかな気風を特徴とする。律令国家の形成期を背景に、国家仏教の展開や和歌の確立など、日本独自の国家と文化の基礎が築かれた重要な転換期である。
律令国家の形成と「白鳳」の時代背景
白鳳文化は、645年の大化の改新から710年の平城京遷都に至る、飛鳥時代後期の文化を指す。なお、「白鳳」という名称は『日本書紀』などの正史には見られない私年号(美称)の一つに由来し、のちに美術史などの分野でこの時期の文化区分として定着した。
この時代は、663年の白村江の戦いでの敗北という対外的な危機を契機として、日本が中央集権的な国家体制の構築を急いだ時期である。特に、672年の壬申の乱に勝利して即位した天武天皇およびその皇后である持統天皇の時代には、強力な天皇中心の権力体制が確立した。白鳳文化は、こうした天皇の権威を高め、新興の律令国家を威容づけるための国家的な文化事業という側面を強く持っていた。
初唐文化の受容と国家仏教の展開
白村江の戦い以降、日本は一時的に唐との関係が悪化したものの、やがて関係を修復し、遣唐使の派遣を再開した。また、滅亡した百済や高句麗からの亡命知識人らを通じても、中国の初唐や朝鮮半島(特に統一新羅)の最新の文化がもたらされた。前期の飛鳥文化が朝鮮半島の三国や南北朝時代の中国の影響を受けていたのに対し、白鳳文化はより直接的に、統一帝国である唐の洗練された文化を受容している点が特徴である。
また、仏教政策においても大きな転換が見られた。飛鳥時代には蘇我氏などの有力豪族が私的に氏寺を建立していたが、白鳳期には国家が主体となって寺院を建立・保護する国家仏教の形が整えられた。天皇や国家の安泰を祈願するため、大官大寺(のちの大安寺)や薬師寺などの壮大な官大寺が次々と造営され、仏教は国家鎮護のイデオロギーとして深く根付いていった。
彫刻・絵画に見る若々しさと写実性
美術の分野において、白鳳文化は前代の飛鳥文化の厳格さや抽象的な表現から脱却し、初唐美術の影響を受けた丸みのある柔和で自然な肉体表現へと移行した。仏像の顔立ちは童顔で親しみやすく、「白鳳の微笑」とも形容される若々しく大らかな表情が特徴である。
代表的な彫刻としては、金銅仏の最高傑作とされる薬師寺金堂薬師三尊像や、白鳳期の瑞々しい造形美を示す興福寺仏頭(旧山田寺薬師如来像)、さらに法隆寺阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)や法隆寺夢違観音像などが挙げられる。
絵画においても、インドのグプタ様式が西域・唐を経て伝わったとされる法隆寺金堂壁画(1949年の火災で焼損)や、高句麗や唐の壁画古墳の影響を色濃く残す高松塚古墳壁画(四神や極彩色豊かな男女群像が描かれる)など、国際色豊かで高度な技法を用いた傑作が誕生した。
文学の夜明けと国史編纂の開始
白鳳期は、漢字の本格的な使用と日本語の文字化が進み、文学が大きく飛躍した時代でもある。知識人の間では漢詩文の教養が重んじられる一方で、漢字の音訓を用いて日本語を表記する万葉仮名の工夫が進み、和歌が独自の文学形式として確立した。
『万葉集』の第1期・第2期にあたるこの時代には、額田王や柿本人麻呂といった優れた宮廷歌人が活躍した。特に柿本人麻呂は、天皇の神聖さや国家の威信を讃える長歌を完成させ、「歌聖」と称された。
さらに、律令国家としての正統性を内外に主張し、天皇の支配の由来を明確にするため、天武天皇の発意によって『古事記』や『日本書紀』の編纂事業が開始された。このように、白鳳文化は美術や建築のみならず、思想や文学の面においても、その後の日本文化の骨格を形作った極めて重要な時代であったと言える。