丸都(丸都城) (がんとじょう)
【概説】
鴨緑江の中流域(現在の中国吉林省集安市)に築かれた、古代高句麗の首都を構成した山城。平地城である国内城と対をなし、平時と戦時で使い分ける高句麗特有の都城体制の要として機能した。427年に平壌へ遷都されるまで、高句麗の政治・軍事の中心地として東アジアの国際情勢に大きな影響を与えた。
国内城と丸都城――「平地城・山城」の双城体制
高句麗は建国初期、卒本(そつほん)を拠点としていたが、西暦3年に第2代の瑠璃明王が鴨緑江北岸の集安へと遷都し、国内城(こないじょう)を築いた。その後、第10代の山上王の時代である209年、国内城の北方約2.5キロメートルに位置する山岳地帯に丸都城が築かれ、ここに一時遷都したとされる。
丸都城の最大の特徴は、平地城である「国内城」と、山城である「丸都城」が一体となって首都機能を発揮する「双城体制(別都制)」をとっていた点にある。王宮や官衙は平時の拠点である国内城に置かれたが、外敵の侵入といった国家の非常事態には、天然の険阻な地形に囲まれた丸都城へと移動し、籠城戦を展開した。この防御に適した都城構造は、のちに朝鮮半島の百済や新羅、さらには古代日本の山城(朝鮮式山城など)の築城技術にも大きな影響を与えることとなった。
北方王朝との激突と破壊の歴史
丸都城の歴史は、中国の王朝や北方諸民族との絶え間ない抗争の歴史でもあった。好戦的な高句麗はしばしば中国の国境地帯を侵犯したため、激しい報復を受けた。三国時代には、魏の将軍である毌丘倹(かんきゅうけん)の遠征(244年〜245年)により丸都城は攻め落とされ、徹底的に破壊された。
その後、高句麗は王権を立て直して丸都城を再建したものの、342年には五胡十六国時代の前燕(慕容氏)の侵攻を受け、再び都城は陥落した。この際、美川王(好太王の祖父)の墓が暴かれ、皇太后や皇后が捕虜として拉致されるという壊滅的な打撃を被っている。このように、丸都城は高句麗の栄光だけでなく、大国との戦争による度重なる悲劇の舞台でもあった。
日本史との関わり――好太王碑と朝鮮半島情勢
4世紀後半になると、高句麗は北方の脅威を排して全盛期を迎え、南進策を本格化させる。第19代の好太王(広開土王)とその子である長寿王の時代、高句麗は朝鮮半島南部へと勢力を伸ばし、百済や新羅を圧倒した。この時期、朝鮮半島南部(加羅・任那地域)の鉄資源や権益を確保すべく進出していた倭国(日本)は、百済と結んで高句麗と衝突することになる。
この倭国との激しい戦闘の記録が刻まれているのが、丸都城・国内城の近隣に建てられた好太王碑(広開土王碑)である。同碑に記された「辛卯年の条」などの記述は、倭国が朝鮮半島へ出兵し、高句麗と戦った事実を示す日本古代史(古墳時代)の超一級史料となっている。
その後、高句麗は南進策をさらに推し進めるため、427年に大同江流域の平壌へ遷都した。これにより丸都城は首都としての役割を終えたが、高句麗の精神的な故地、および王陵が集中する重要な聖地として、高句麗の滅亡にいたるまで尊ばれ続けた。