誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)

重要度
★★

誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳) (こんだごびょうやまこふん(おうじんてんのうりょうこふん)

5世紀初頭〜前半頃

【概説】
大阪府羽曳野市に位置する、古墳時代中期を代表する前方後円墳。墳丘長約425メートルを誇り、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に次ぐ日本第2位の規模を持つ巨大古墳。百舌鳥・古市古墳群を構成する重要遺産であり、宮内庁によって第15代応神天皇の陵墓に治定されている。

古市古墳群を代表する巨大前方後円墳の構造

誉田御廟山古墳は、大阪平野の東部に位置する古市古墳群(羽曳野市・藤井寺市)の中に築かれた、5世紀初頭から前半頃の築造と推定される前方後円墳である。全長約425メートル、後円部径約250メートル、前方部幅約300メートルに及び、日本で2番目の規模を誇る。墳丘の体積(約143万立方メートル)においては、日本最大の堺市・大仙陵古墳(仁徳天皇陵)をも凌ぎ、実質的な土木量としては日本最大ともいわれている。

墳丘は3段に築成されており、周囲には二重の周濠(内濠と外濠)が巡らされていたことが確認されている。また、造り出し(墳丘から張り出したステージ状の遺構)からは、家型、盾型、甲冑型、さらには水鳥や馬などをかたどった大量の形象埴輪が出土しており、当時の葬送儀礼の様子を色濃く伝えている。この圧倒的な規模の土木工事は、当時の倭王権(ヤマト政権)の強力な動員力と組織力を雄弁に物語るものである。

「河内王朝」の成立と王権の移動

本古墳は宮内庁により、第15代応神天皇(誉田別命)の「恵我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのりょう)」に治定されている。記紀(『古事記』『日本書紀』)において、応神天皇は朝鮮半島(百済)との外交や渡来人の受け入れを進め、河内平野の開拓を行った王として描かれる。歴史学・考古学においては、この時代に大和盆地から河内平野へと巨大古墳の造営地がシフトしたことから、王権の拠点の移動、あるいは王朝の交代(いわゆる河内王朝説)が想定されており、本古墳はその象徴的なモニュメントに他ならない。

隣接する陪塚(ばいちょう)とされる丸山古墳や二ツ塚古墳などからは、高級な金銅製馬具(鞍金具など)が出土しており、これらは朝鮮半島(新羅や加羅など)からもたらされた技術、あるいは渡来人自身の手によって製作された可能性が高い。このことは、応神天皇の時代に大陸・半島との通交が活発化し、高度な金属加工技術や乗馬風習が日本列島に本格的に導入されたことを裏付けている。

世界文化遺産としての価値と現代への継承

誉田御廟山古墳を含む古市古墳群は、堺市の百舌鳥古墳群とともに、2019年に「百舌鳥・古市古墳群:古代日本の墳墓群」としてユネスコの世界文化遺産に登録された。これは、4世紀後半から5世紀後半にかけての日本の墳墓建築技術と、当時の階層社会を明確に示す物証としての普遍的価値が認められた結果である。

中世には、源頼朝をはじめとする源氏一門が、応神天皇を八幡神(武神)の化身とみなして崇拝したため、南隣の誉田八幡宮との結びつきが強まった。古墳の周囲や内部が信仰の対象として守られてきた歴史は、日本の文化財保護のあり方や、天皇陵というアジール(聖域)が時代を超えてどのように受け継がれてきたかを考える上でも極めて重要な意味を持っている。

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日本史一問一答(ランダム)

Q. 落葉広葉樹林の広がりとともに豊富にとれるようになり、縄文時代の重要な主食となったドングリやクルミ、クリなどの木の実を総称して何というか?
Q. 三韓の一つで、朝鮮半島南部に位置し、のちに加耶(任那)諸国へと発展した鉄資源が豊富な地域を何というか?
Q. 律令国家の行政機関で、都(京内)を東西に分割し、それぞれの治安維持や租税の徴収などを担当した役所を何というか?