東晋

重要度
★★

東晋 (とうしん)

317年〜420年

【概説】
4世紀初頭、北方の遊牧民族の侵入によって華北を追われた漢民族が、江南に逃れて建国した中国の王朝。都を建康(現在の南京)に置き、日本の古墳時代における東アジア外交やヤマト政権の国家形成に多大な影響を与えた。

東晋の成立と「五胡十六国」の動乱

西晋(265年〜316年)が、皇族間の内乱である「八王の乱」によって急速に衰退すると、モンゴル高原やチベット方面から華北へ移住していた匈奴・鮮卑・羯・氐・羌といった「五胡」と呼ばれる遊牧民族が台頭した。316年、匈奴の建てた前趙によって西晋の都・長安が陥落し、西晋は滅亡する。この「永嘉の乱」と呼ばれる混乱を避けて江南(長江下流域)へと遷った皇族の司馬睿(元帝)は、317年に建康を都として東晋を再興した。

東晋が建国された長江流域は、未開発の地が多く残されていたが、華北からの大量の漢民族(避難民)の流入に伴って開発が急速に進み、のちの江南経済の基盤が築かれた。華北が非漢民族の諸国家が興亡する「五胡十六国時代」の混沌に包まれる中、東晋は名門貴族(王氏や謝氏など)の支持を背景に、優雅で貴族的な「六朝文化」を花開かせ、漢民族の正統王朝としての地位を保ち続けた。

東晋と倭国(ヤマト政権)の交渉

東晋が江南を支配していた4世紀から5世紀初頭にかけての日本列島は、古墳時代(前期から中期)にあたり、畿内を中心とするヤマト政権が国内の統一を進め、朝鮮半島へも積極的に進出していた時期である。この時代、北方の強国である高句麗の南下政策に対抗するため、朝鮮半島の百済や加羅(任那)、そして倭国(ヤマト政権)は、中国南朝の雄である東晋との結びつきを求めて活発な外交を展開した。

歴史文献において、倭国と東晋の具体的な外交交渉が確認されるのは、東晋末期の413年のことである。『晋書』安帝紀や『宋書』倭国伝によると、この年に「倭国」が貢物を捧げたと記されており、これがのちの「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)による南朝への朝貢の先駆けとなった。高句麗の「広開土王碑文」に記された、倭国と高句麗による朝鮮半島をめぐる激しい覇権闘争(391年の辛卯の年以降)は、この東晋を中心とする国際秩序への参入をめぐる外交戦でもあった。

朝鮮半島を介した東晋文化の日本への波及

東晋と倭国の関係は、直接的な遣使にとどまらず、朝鮮半島の百済などを介した間接的な文化交流によって日本列島に大きな足跡を残した。百済の近肖古王が東晋から冊封(中国の君臣関係を結ぶこと)を受けた372年、百済から倭王に贈られたとされる石上神宮の「七支刀」は、東晋の年号(太和)を帯びた、当時の緊密な国際関係を象徴する遺物である。

また、東晋で発展した仏教美術や、中国南朝特有の陶磁器(古越磁などの初期の青磁)、高度な金属工芸技術、さらには文字(漢字)の体系などが、百済や高句麗からの渡来人を経由して日本列島に伝えられた。これらはヤマト政権の支配力を誇示する古墳の副葬品や、国家の官僚機構を整備するための基礎技術となり、日本が古代国家へと成長していく過程において極めて重要な役割を果たした。

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Q. 七道のうち、畿内から日本海側を通って越後方面へ向かう「北陸道」のことを、古い呼び名で何というか?
Q. 埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣や、熊本県の江田船山古墳出土鉄刀にその名が記されている大王の呼称は何か?