南朝(南北朝時代の中国)
【概説】
5世紀から6世紀にかけて、南北朝時代の中国において江南を中心に興亡した宋・斉・梁・陳の4つの漢民族王朝の総称。日本の歴史においては古墳時代の中期から後期に該当し、当時の倭国の王たちが東アジアの国際社会における優位性を求めて盛んに遣使を行った相手国として極めて重要である。
江南を拠点とした漢民族王朝の展開
中国の南北朝時代において、長江流域以南の江南地方を支配した漢民族の政権を総称して南朝と呼ぶ。420年に東晋の武将であった劉裕が建国した宋(劉宋)に始まり、その後、斉、梁、陳と4つの王朝が交替した。いずれも建康(現在の南京)を都と定めている。華北を支配した異民族系の北朝(北魏など)と激しく対立しながらも、豊かな農業生産力を背景に江南の開発を進め、門閥貴族層を中心に華麗な文化(六朝文化)を花開かせた。589年に北朝系の隋が陳を滅ぼして中国を統一したことで、南朝の歴史は幕を閉じた。
倭の五王と南朝への遣使
日本の古墳時代において、南朝は倭国(日本)にとって最大の外交相手であった。5世紀を中心に、倭国の有力な王たちは東晋の後を継いだ宋や、それに続く斉に対して度々使者を派遣して貢物を献上した。中国の歴史書『宋書』倭国伝などの記述から、これらの王は倭の五王(讃・珍・済・興・武)と呼ばれている。
倭国が南朝に遣使を行った最大の目的は、南朝の皇帝に臣従して「安東大将軍」や「倭王」などの官爵(称号)を授かることであった(冊封体制への参加)。巨大な権威を持つ中国王朝から将軍号や王号を公認されることは、大和政権の国内における統治権を確固たるものにすると同時に、周辺諸国に対する外交的優位性を誇示するための強力なカードとなったのである。
倭王武の上表文と朝鮮半島情勢
南朝への遣使は、当時の緊迫した朝鮮半島情勢と密接に結びついていた。5世紀の朝鮮半島では、北方の強国である高句麗が南下政策を推進し、百済や新羅と激しく対立していた。倭国は鉄資源の確保などを目的に半島南部(伽耶・任那地域)と深い関係を持っていたため、高句麗の圧迫に対抗する必要があった。そこで、南朝の権威を後ろ盾として利用しようとしたのである。
特に478年、倭の五王の最後の一人である倭王武(雄略天皇に比定される)が宋の順帝に奉った「上表文」は有名である。この上表文の中で武は、祖先が長年にわたり東アジア各地を平定してきた軍事的功績を誇示しつつ、高句麗の無道を訴えた。その結果、宋から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」という称号を認められ、朝鮮半島南部における軍事的な支配権を形式的に承認させることに成功している。
南朝文化の波及と仏教伝来
南朝の存在は、政治・外交面だけでなく、文化的な側面においても日本に多大な足跡を残した。南朝で培われた高度な技術や諸制度、さらには漢字の教養などは、渡来人や朝鮮半島の諸国(特に百済)を経由して倭国へともたらされた。
とりわけ重要なのが仏教の伝来である。南朝の梁では武帝の庇護のもとで仏教が手厚く保護され、大きく隆盛した。この南朝系の仏教が百済へと伝わり、6世紀半ば(欽明天皇の時代)に百済の聖明王から倭国へ公式に伝えられることとなる。また、南朝の陵墓に見られる装飾や壁画のモチーフが、日本の装飾古墳の意匠に影響を与えたとする指摘もあり、飛鳥時代へと連なる日本の国家形成や文化発展の源流として、南朝が果たした役割は計り知れない。