讃 (さん)
【概説】
中国の歴史書『宋書』に登場する「倭の五王」の最初の王。5世紀初頭に中国の南朝(東晋および宋)へ使節を派遣し、冊封体制下において倭国(ヤマト政権)の王としての地位を国際的に承認させた人物である。
東アジア国際秩序への参入と対外外交
5世紀、倭国は「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)と呼ばれる歴代の王を中心に、中国の南朝に対して積極的な朝貢外交を展開した。『宋書』倭国伝によれば、讃は421年(永初2年)に南朝・宋の高祖(武帝)に朝貢し、詔して「除授」(官爵を与えること)を賜ったとされる。さらに425年(元嘉2年)には、司馬の曹達(そうたつ)らを派遣して上表文と方物を献上した。
このような積極的な外交の背景には、朝鮮半島の緊迫した情勢があった。当時、朝鮮半島では高句麗が南下政策を進めており、百済や新羅、そして加羅(任那)諸国を圧迫していた。倭国はこれに対抗し、朝鮮半島南部における権益(軍事的な指揮権や通商権)を有利に確保するため、東アジアの絶対的強者である中国皇帝の権威(冊封)を必要としたのである。讃による遣使は、それまでの神秘的な「女王の国(邪馬台国)」から、東アジアの政治秩序に主体的に参入する「軍事力を背景とした王権」への脱皮を象徴している。
記紀の天皇との比定をめぐる議論
讃が日本の古典(『古事記』や『日本書紀』)に登場するどの天皇に該当するかについては、古くから激しい論争が続いている。主な説として、仁徳天皇、履中天皇、あるいは応神天皇とする説が挙げられる。
『宋書』には「讃死して弟珍立つ」とあり、讃の次に王位を継いだ「珍」は弟であると記されている。記紀の皇統譜(家系図)に照らし合わせると、仁徳天皇の崩御後にその子である履中・反正・允恭が順に即位している。このため、反正天皇を「珍」に比定し、その兄である仁徳天皇(または履中天皇)を「讃」とする説が有力視されてきた。しかし、記紀の年代記述(王年代紀)と中国史料の年代にはズレがあり、また中国風の一字名(「讃」など)が和風の諱(いみな)のどの部分に由来するのか(例えば、履中の名「大兄去来穂別(おおえのいざほわけ)」の「いざ」を写したもの、あるいは仁徳の名「大鷦鷯(おおさざき)」の「さざき」を写したものなど)についても諸説あり、未だに確定的な結論には至っていない。
「倭の五王」時代の始まりとしての歴史的意義
讃の登場は、それまで文字資料に乏しかった日本古代史において、中国史料を通じて確実な年代比定が可能となる画期的な画期(メルクマール)となった。讃が遣使を行った5世紀前半は、日本列島において巨大な前方後円墳(大仙陵古墳など)が盛んに築造された時期と重なる。
讃の外交政策は、国内の有力豪族(氏族)たちに対して、王権が中国皇帝という「超越的な後ろ盾」を持つことを誇示する手段でもあった。国内の統合を進めつつ、対外的には朝鮮半島での優位性を維持しようとした讃の路線は、続く弟の珍、そして最盛期を迎える「武(雄略天皇)」へと引き継がれ、ヤマト政権の基礎を揺るぎないものにしていったのである。