允恭天皇

重要度

【参考リンク】
允恭天皇(Wikipedia)

允恭天皇 (いんぎょうてんのう)

生没年不詳、5世紀中頃

【概説】
仁徳天皇の第五皇子とされる、5世紀中頃のヤマト政権の大王。乱れた氏姓秩序を正すために「盟神探湯(くかたち)」を実施したことで知られ、中国史書にみえる「倭の五王」の「済(せい)」に比定される人物。その治世は、王権の国内支配の強化と、積極的な大陸外交によって特徴づけられる。

『宋書』にみる倭王「済」と東アジア外交

允恭天皇は、中国の南朝の歴史書である『宋書』倭国伝に登場する「倭の五王」のうち、3番目の大王である「」に比定されるのが通説である。『宋書』の記録によると、済は443年に南朝の宋に朝貢して安東将軍倭国王の称号を授かり、さらに451年には「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」などの軍事号を加えられた。これは、朝鮮半島南部における外交的・軍事的な優位性を中国皇帝に認めさせることで、東アジアにおける地位を高め、高句麗に対抗しようとしたヤマト政権の国際戦略を示すものである。

氏姓制度の再編と「盟神探湯」の断行

国内政治においては、拡大する政権下で豪族たちが偽りの氏(うじ)や姓(かばね)を名乗るようになり、身分秩序が著しく混乱していた。これを正すため、允恭天皇は415年(『日本書紀』による)に飛鳥の甘樫丘において「盟神探湯(くかたち)」と呼ばれる熱湯を用いた神判を断行した。熱湯に手を入れさせ、正しき者は火傷を負わず、偽りの者は大火傷を負うというこの過酷な試練により、諸豪族の氏姓の真偽を正したという。この事件は、のちの氏姓制度へとつながる豪族支配の枠組みを整え、王権の国内統制力を強化する上で重要な歴史的転換点となった。

倭の五王の謎: 五世紀を解明する (講談社現代新書 637)

史料を丹念に読み解き、謎に包まれた五世紀の倭の五王の実像と当時の日本列島の国際情勢を鮮やかに描き出した一冊。

古代の天皇制 (岩波現代文庫 学術494)

国家成立の過程における権力の変遷を追い、古代天皇制の源流と統治のあり方を学術的視点から解き明かした必読の書。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 倭王「武」に比定され、鉄剣や鉄刀の銘文から、関東から九州に至る広範囲を服属させていたことがわかる大王は誰か?
Q. 福井県にある低湿地遺跡で、丸木舟や漆器、木製品などが極めて良好な状態で出土し「縄文のタイムカプセル」と呼ばれる貝塚はどこか?
Q. 律令国家の中央官制(二官八省一台五衛府)における「一台」にあたり、役人の非行や不正を監視・摘発した警察・監察機関は何か?