志波城 (しわじょう)
【概説】
平安時代初期の803年に、征夷大将軍の坂上田村麻呂によって陸奥国に築かれた古代東北最大級の城柵。前年に築かれた胆沢城のさらに北方に位置し、朝廷による蝦夷征討と東北支配の拡大を示す象徴的な拠点。
築城の背景と蝦夷征討の展開
桓武天皇による蝦夷征討(三十八年戦争)の最終局面において、征夷大将軍の坂上田村麻呂は、802(延暦21)年に蝦夷の指導者であるアテルイ(阿弖流為)を降伏させ、胆沢地方(現在の岩手県奥州市)に胆沢城を築いた。これにより朝廷の支配権は北上川中流域まで確立された。その翌年である803(延暦22)年、さらなる北進政策の一環として、胆沢城のさらに北方に築かれたのが志波城である。志波城の創設により、朝廷の勢力圏は現在の盛岡盆地、すなわち北上川流域の最北部にまで達することとなった。
志波城の規模と構造的特徴
志波城は、築城にあたって「造志波城使」が任命されるなど、国家的な大事業として建設された。その規模は、外郭の一辺が約840メートルにおよぶ方形の巨大な遺跡であり、古代東北の城柵の中でも最大級を誇る。外郭は築地塀(泥土の壁)や木柵で囲まれ、その外側には大溝が掘られていた。城内中央には儀式や政務を行う政庁が配置され、実務を行う官衙(役所)群や、警備にあたる防人たちの兵舎、さらには兵糧を保管する倉庫群などが計画的に配置されていた。これは、単なる軍事砦にとどまらず、現地律令支配を統括する地方行政組織としての性格を強く帯びていたことを示している。
水害による放棄と徳丹城への移転
志波城は北上川の支流である雫石川などの合流点付近の低湿地帯に築かれたため、完成直後から幾度となく水害(洪水)に悩まされることとなった。また、805(延暦24)年には桓武天皇のもとで「軍事と造作」を停止すべきとする徳政相論が戦わされ、蝦夷征討事業そのものが大幅に縮小されることとなった。こうした政治的・地理的背景から、志波城はわずか10年ほどで放棄されることとなり、812(弘仁3)年頃には約10キロメートル南方の丘陵地である徳丹城(岩手県紫波郡矢巾町)へとその機能が移転された。短命に終わったものの、志波城は朝廷の王権が東北地方北部に及んだ到達点を示す重要な史跡である。