雄略天皇 (ゆうりゃくてんのう)
【概説】
5世紀後半の古墳時代に在位したとされるヤマト王権の大王。中国の史書に記される「倭の五王」の最後の王である倭王「武」に比定される。国内では「ワカタケル大王」と呼ばれており、有力豪族を服従させて王権を強大化させ、のちの古代国家形成の重要な基礎を築いた。
倭王「武」としての対中国外交
雄略天皇は、中国の南朝の史書『宋書』倭国伝に登場する「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」の最後の王である倭王「武」に比定されている。478年、武は宋の順帝に上表文(いわゆる「倭王武の上表文」)を奉った。この上表文には、祖先が東・西・海の北の諸国を平定して国土を統一したという自負や、朝鮮半島北部を支配する高句麗の圧迫によって宋への朝貢が阻まれているという当時の国際情勢が切々と記されている。
武は宋に対して「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」という称号を求め、宋からは百済を除外するなどの一部変更はあったものの、概ね希望通りの官号を授与された。この外交交渉の背景には、朝鮮半島南部におけるヤマト王権の政治的・軍事的な優位性を国際的に承認させ、南下政策を強める高句麗に対抗する狙いがあった。
「ワカタケル大王」銘が示す広域支配
雄略天皇の時代の国内の様子を如実に物語るのが、全国各地から出土した金石文である。1968年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣(辛亥年=471年の銘をもつ)には「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」に「杖刀人首(じょうとうじんのおびと)」として奉仕したことが記されている。また、1873年に熊本県の江田船山古墳から出土した鉄刀にも、同じく「獲加多支鹵大王」の治世に「典曹人(てんそうじん)」として仕えたことが刻まれていた。
関東地方と九州地方という遠く離れた地域から、同一の大王名が記された刀剣が発見されたことは日本古代史上の大発見であった。これは、5世紀後半の段階でヤマト王権の支配(あるいは同盟関係)が東国から九州の中南部にまで広く及んでいたことを証明している。また、地方の有力豪族が中央の王権に出仕して軍事や行政の実務を担うという、大王を中心とした中央集権的な支配体制の萌芽が見られる点でも極めて重要である。
有力豪族の弾圧と専制的な王権の確立
『古事記』や『日本書紀』の伝承によれば、雄略天皇は即位前後に数多くの皇族や有力者を殺害し、強引に大王位に就いたとされる。治世中も、葛城氏(葛城円大臣)や吉備氏(吉備下道臣前津屋、吉備田狭など)といったヤマト王権を脅かしかねない大豪族を武力で討伐・解体し、大王への権力集中を図った。
さらに、部民制を整備して王権の直轄領(屯倉)や直轄民(名代・子代)を拡大し、経済的基盤を強化した。また、秦氏や漢氏などの渡来人を組織的に掌握し、彼らがもたらした養蚕、機織り、須恵器生産、漢字の読み書きなどの先進技術を積極的に王権の統治機構に組み込んだ。大蔵(おおくら)などの国家の財物を管理する機関が整えられ始めたのもこの時期とされる。
歴史的意義と二面的な人物像
『日本書紀』において、雄略天皇は些細なことで激怒し人を処刑する「大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)」として描かれる一方で、善政を敷き農桑を奨励した「有徳天皇(おむだりしますすめらみこと)」としても記されており、その人物像は二面的である。これは、古い血縁的・連合的な関係を断ち切り、時に苛烈な手段を用いて専制君主へと脱皮しようとした大王の姿を反映していると考えられる。
雄略天皇の時代は、巨大な前方後円墳が築造された5世紀の「巨大古墳の時代」の頂点でありながら、同時に刀剣銘に見られるような文字の本格的な使用や官司制の萌芽が見られる時代でもあった。ヤマト王権が単なる豪族の連合体から、法や制度に基づく後の古代国家(律令国家)へと変質していく、まさに歴史の重大な転換点であったと言える。