中臣鎌足

重要度
★★★

中臣鎌足 (なかとみのかまたり)

614〜669

【概説】
飛鳥時代中期に活躍し、中大兄皇子とともに乙巳の変を計画・実行した政治家。大化の改新において新政権のブレーンとして中央集権化を推し進め、死の直前に天智天皇から「藤原」の氏を賜ったことで、後世の日本史に君臨する藤原氏の始祖となった。

神祇を司る中臣氏の出自と学問への傾倒

中臣氏は古来より大和王権において神事・祭祀を世襲して司る有力氏族であった。しかし、鎌足自身は伝統的な神道のみならず、大陸からの新しい知識に強い関心を示した。若き日の鎌足は、遣隋使として大陸に渡った経験を持つ学僧の旻(みん)や南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の私塾に通い、儒教や大陸の最新の政治思想、さらには『六韜(りくとう)』などの兵法を深く学んだとされる。当時の大和王権は、蘇我蝦夷・入鹿父子による権力集中が進み、天皇家の権威をも凌ぐほどの専横を見せていた。儒教的大義名分論や中央集権的な国家観を身につけた鎌足にとって、蘇我氏の振る舞いは容認できるものではなく、やがて彼は王権の刷新と強固な国家の樹立を志すようになった。

中大兄皇子との邂逅と「乙巳の変」の断行

蘇我氏打倒を企図した鎌足は、まず次期天皇の有力候補であった軽皇子(のちの孝徳天皇)に接近し、関係を深めた。さらに、飛鳥寺で行われた打毱(蹴鞠)の会において、皮鞋が脱げた中大兄皇子(のちの天智天皇)にそれを拾って差し出したことを機に、両者は運命的な出会いを果たす。二人は南淵請安の塾へ通う道すがら、周囲の目を避けながら蘇我氏打倒の密議を重ねた。

周到な準備の末、645年(皇極天皇4年)、飛鳥板蓋宮において三韓(朝鮮半島の三国)からの使者が表文を読み上げる儀式の最中、鎌足らの手引きにより中大兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺した。翌日には父の蝦夷も自邸に火を放って自害し、半世紀以上にわたって権勢を振るった蘇我氏本宗家は滅亡した。この一連のクーデターを乙巳の変(いっしのへん)と呼ぶ。

新政権のブレーン「内臣」としての暗躍と国政改革

乙巳の変の後、皇極天皇は退位し、軽皇子が孝徳天皇として即位、中大兄皇子が皇太子となる新政権が発足した。この政権下で鎌足は、大連(おおむらじ)や大臣(おおおみ)といった従来の最高官職ではなく、天皇や皇太子に直接仕えて機密に参与する特別職である内臣(うちつおみ)に任じられた。鎌足は中大兄皇子の最側近として、公地公民制の導入や国郡制度の整備などを柱とする大化の改新の青写真を描き、実践に移していった。

さらに、663年の白村江の戦いでの敗戦という国家存亡の危機にあっては、唐・新羅の侵攻に備えた国防体制の構築が急務となった。鎌足は中大兄皇子(天智天皇)を補佐し、近江大津宮への遷都や防人・烽(とぶひ)の設置、水城の築造、そして日本初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)の作成準備など、急進的な中央集権化と国力強化に多大な貢献をした。

「藤原」賜姓と後世への絶大な影響

鎌足に対する天智天皇の信頼は絶対的であり、669年(天智天皇8年)、鎌足が病の床に伏すと、天皇自らがその邸宅を見舞ったと『日本書紀』に記されている。その死の直前、長年の多大な功績を讃えられ、鎌足は最高冠位である大織冠(たいしょくかん)と大臣の位、そして「藤原」の氏(ウジ)を賜った。これにより、彼は中臣氏の枠を離れ、歴史上初めて「藤原鎌足」となったのである。

鎌足自身は賜姓直後に56歳で没したものの、彼の遺した政治的基盤と藤原の氏は、次男の藤原不比等へと受け継がれた。不比等は『大宝律令』の編纂など律令国家の完成に尽力して藤原氏の地位を盤石なものとし、さらにその子孫たちは天皇の外戚として権力を掌握、平安時代の摂関政治へと至ることになる。中臣鎌足の存在は、単なる一時代の実力者にとどまらず、その後の日本史を千年以上にわたって席巻する「藤原氏繁栄の礎」を築いたという点で、日本政治史において極めて重要な歴史的意義を持っている。

狩谷棭斎 (人物叢書)

江戸の博覧強記が遺した膨大な知の集積を紐解き、国学と考証学の深淵に触れるための決定的な評伝。

藤原鎌足: 日本の帝王学を拓いた男

蘇我氏を倒し律令国家の礎を築いた知略の将、その生涯から日本人の政治思想の原点に迫る歴史の書。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 608年の遣隋使で学問僧として留学し、帰国後は大化の改新において新政府の顧問である国博士となった僧は誰か?
A.
Q. 『古事記』『日本書紀』において、長寿を保って5代の天皇に仕えたとされる伝説的な忠臣で、蘇我氏などの祖とされる人物は誰か?
Q. 律令制の行政区分において、都が置かれ、政治・経済の中心として特別扱いされた大和・山城・河内・摂津・和泉(のちに独立)の地域を総称して何というか?