蘇我稲目 (そがいなめ)
【概説】
6世紀半ばの大和政権で大臣(おおおみ)を務め、蘇我氏全盛の礎を築いた政治家。渡来人集団を組織的に掌握して政権の財政権を握り、百済から伝来した仏教の受容を主張して、大連(おおむらじ)の物部尾輿と激しく対立した。
渡来人の組織化と財政・実務権の掌握
蘇我氏は、葛城氏や平群氏といった従来の有力臣姓(おみせい)豪族が没落する中で台頭した新興氏族である。蘇我稲目は欽明天皇の朝廷において大臣(おおおみ)に就任し、政治的主導権を握った。稲目の権力の源泉は、東漢氏(やまとのあやうじ)に代表される、朝鮮半島や中国大陸から渡来した渡来人(帰化人)集団を配下に収めたことにあった。彼らが持つ先進的な文筆技術や計算能力、最新の技術を駆使して、王権の直轄領である屯倉(みやけ)の管理や大蔵・内蔵などの国家的財政実務を一手に掌中に収めた。これにより蘇我氏は、大和政権内における実質的な経済基盤と政治権力を急速に拡大させることに成功したのである。
仏教受容をめぐる物部氏との抗争(崇仏論争)
6世紀中頃(538年または552年の諸説あり)、百済の聖明王から欽明天皇へ、仏像や経典がもたらされた(仏教伝来)。天皇から仏教を受容すべきか否かを問われた際、稲目は大陸の先進的な文化や統治理念を導入する立場から、仏教の受容と礼拝を強く主張した(崇仏派)。これに対し、代々朝廷の軍事や神事を司ってきた大連の物部尾輿や中臣鎌子は、在来の神々の怒りを買うとして猛烈に反対した(排仏派)。欽明天皇は稲目に試しに仏像を礼拝することを許し、稲目は自身の向原(むくはら)の邸宅を寺(向原寺)として仏像を安置したが、直後に疫病が流行すると、物部氏はこれを「仏を祀ったための祟り」であると断定し、寺を焼き、仏像を難波の堀江に投げ捨てた。この「崇仏・排仏論争」は、単なる宗教教義の対立にとどまらず、台頭する新興勢力(蘇我氏)と、保守的な伝統勢力(物部氏・中臣氏)による大和政権内の主導権争いという極めて政治的な側面を有していた。この対立構図は、次代の蘇我馬子と物部守屋の武力衝突へと引き継がれていくこととなる。
外戚関係の形成と後継政治への布石
蘇我稲目は、自身の権力を次代へと世襲させ、蘇我氏の地位を不動のものとするために画期的な婚姻政策を展開した。彼は自身の娘である堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(お姉君・をあねのきみ)の姉妹を、相次いで欽明天皇の妃(ひ)として嫁がせた。この血縁関係により、堅塩媛からは後の用明天皇や推古天皇が、小姉君からは崇峻天皇が誕生することとなった。天皇の母方の祖父(外戚)となることで政治的実権を掌握するこの政治手法は、のちの平安時代における藤原氏の摂関政治の先駆をなすものであった。稲目が築いたこの強固な皇室との結びつきと政治的地位は、息子の蘇我馬子へと継承され、蘇我氏による政治的専制の黄金時代をもたらす原動力となった。