左大臣(明治時代)

正院において太政大臣を補佐する役割を持ち、島津久光などが任命された役職は何か?
カテゴリ:
重要度
★★★

左大臣(明治時代) (さだいじん)

1869年〜1885年

【概説】
明治初期の太政官制において、太政大臣を補佐する次官格として設置された政府最高首脳の官職。
特に1871年(明治4年)の太政官職制改革で創設された「正院」において重きをなし、島津久光や有栖川宮熾仁親王などの有力者や皇族が就任したが、1885年(明治18年)の内閣制度創設に伴い廃止された。

王政復古に伴う律令官制の復活

慶応3年(1867年)の王政復古の大号令により江戸幕府が崩壊すると、新政府は天皇親政の体裁を整えるため、古代の律令制にならった官制を導入した。1869年(明治2年)の職員令(しきいんりょう)によって「二官六省制」が整備されると、行政の最高機関である太政官(だじょうかん)が設置され、その長官である太政大臣に次ぐ地位として左大臣および右大臣が復活した。近代国家建設の黎明期において、政府の権威を高めるために伝統的な官職名が意図的に採用されたのである。

「正院」における次官格としての役割

1871年(明治4年)、廃藩置県を断行した直後の新政府は、権力基盤の強化と行政機構の近代化を図るため、太政官職制の改革を行った。これにより太政官は正院(せいいん)・左院・右院の三院制に再編され、そのうち国政の最高決定機関とされたのが「正院」であった。
正院には、太政大臣・左大臣・右大臣・参議が置かれた。左大臣は太政大臣の補佐役(次官格)として位置づけられ、太政大臣が欠けた際や病に倒れた際にはその職務を代行する権限を有していた。当時、長官である太政大臣には公家出身の三条実美が長く在任しており、左大臣・右大臣には薩長土肥の有力者や皇族を配し、実務を担う参議(大久保利通や西郷隆盛、木戸孝允ら)を束ねるという政府の基本構造が形成されていた。

島津久光の就任と政府内の対立

左大臣は政府の最高首脳であるため、そのポストには政治的な配慮から極めて有力な人物が登用された。代表的な人物が、薩摩藩の事実上の最高権力者であった島津久光である。
久光は1874年(明治7年)、政府の要請を受けて左大臣に就任した。新政府としては、士族の不満が高まる中で、保守派の重鎮である久光を政府の最高位に取り込むことで不平士族の慰撫と政権の安定を図る狙いがあった。しかし、久光は洋装の廃止や旧制への復帰を強硬に主張し、近代化・欧化政策を推し進める大久保利通や伊藤博文ら実務官僚層と激しく対立した。結果として久光の主張は受け入れられず、翌1875年(明治8年)に左大臣を辞任している。この出来事は、太政官制の頂点に立つ名望家と、実権を握る官僚層との権力構造の乖離を象徴するものであった。

有栖川宮熾仁親王と内閣制度への移行

島津久光の辞任後しばらく左大臣は空席となっていたが、1880年(明治13年)に皇族である有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が就任した。自由民権運動が激化し、国会開設の要求が高まる中で、皇族を左大臣に戴くことで政府の権威を補強する意図があった。

しかし、明治10年代後半に入ると、立憲国家への移行に向けた準備が本格化する。伊藤博文らは、君主(天皇)の権威と政治的責任を切り離し、近代的な行政機構を構築する必要性を痛感していた。その結果、1885年(明治18年)に太政官制は廃止され、新たに内閣制度が創設された。これにより、行政の最高責任者は内閣総理大臣となり、太政大臣・右大臣とともに左大臣という伝統的官職は完全に廃止された。左大臣の消滅は、明治政府が「王政復古」の象徴であった古代的擬制から脱却し、本格的な近代立憲国家へと歩み出したことを意味している。

明治維新と国家形成

近代国家としての礎が築かれた激動の明治期を多角的な視点から考察し、日本という国家のあり方を根底から問い直す歴史学的洞察の書。

詳説日本史図録

教科書『詳説日本史』の内容を、豊富な写真や図解、地図でビジュアル化した超定番の図録。文字だけでは理解しにくい歴史の流れや文化財のディテールが視覚的に頭に入る。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 片山哲内閣が社会主義政策の一環として提出したが、連立与党内の保守派の反発にあって修正され、内閣退陣の一因となった法案は何か?
Q. 琉球漂流民殺害事件を起こした台湾原住民の具体的な部族名は何か?
Q. 三奉行の筆頭であり、全国の寺社と僧侶・神職の統制、寺社領の訴訟を担当した役職は何か。