2個師団増設問題

辛亥革命後の満州や朝鮮の警備増強を理由に、陸軍が第2次西園寺内閣に対して強く求めた軍備拡張案は何か?
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★★

2個師団増設問題 (にこしだんぞうせつもんだい)

1912年

【概説】
大正元(1912)年、陸軍が朝鮮の警備強化などを名目に、第2次西園寺公望内閣に対して2個師団の増設を強硬に要求した政治問題。この要求の拒絶を機に、陸軍大臣が辞任して後任が推薦されず、内閣は総辞職に追い込まれた。明治憲法体制における軍部と政党政治の対立を露呈させ、直後の大正政変(第1次護憲運動)を誘発する契機となった歴史的事件である。

増設要求の背景と財政の緊迫

1910年の韓国併合を経て、日本(大日本帝国)は朝鮮半島を直接支配下に置くこととなった。陸軍は、シベリア方面におけるロシアの動向を警戒するとともに、朝鮮半島の治安維持や国境警備の強化を名目として、朝鮮に常駐する第19・第20の2個師団の増設を強く要求した。

しかし、当時の日本は日露戦争による巨額の公債(外債)を抱えており、財政再建が急務であった。立憲政友会を興国与党として組織された第2次西園寺公望内閣は、緊縮財政と行財政整理(行政スリム化)を基本方針として掲げていた。そのため、蔵相の山本達雄らは陸軍の要求を時期尚早として一貫して拒否し、閣議決定によって増設見送りを決定した。これにより、財政健全化を優先する政府と、軍備拡張を急ぐ陸軍との対立が決定的となった。

軍部大臣現役武官制の悪用と内閣崩壊

閣議決定に反発した陸軍大臣の上原勇作は、1912年12月2日、西園寺首相を経由せずに明治天皇へ直接辞表を提出する「閣外上奏」を行い辞任した。西園寺首相は事態を収拾するため後任の陸相を求めたが、陸軍はこれを拒否した。

ここで大きな壁となったのが、1900年に第2次山県有朋内閣が定めた軍部大臣現役武官制である。同制度は、陸海軍大臣の資格を現役の大将・中将に限定するものであった。陸軍が後任の陸相を推薦しないということは、後任を擁立できず閣僚が欠員となることを意味し、内閣そのものが機能不全に陥る。結果、第2次西園寺内閣は12月5日に総辞職を余儀なくされた。この事態は、一省の意思によって内閣を合法的に打倒できるという、制度上の脆弱性と軍部の越権行為を世間に広く知らしめることとなった。

大正政変(第1次護憲運動)への波及

西園寺内閣の退陣後、長州閥の巨頭であり陸軍出身の桂太郎が内大臣から首相へと復帰し、第3次桂内閣を組織した。しかし、軍部の横暴によって政党政治が踏みにじられたことに対する国民の怒りは頂点に達した。

ジャーナリストや政党政治家を中心に、藩閥による専制政治を排して憲法に基づいた政治を取り戻そうとする「閥族打破・憲政擁護」の運動(第1次護憲運動)が爆発的に発生した。尾崎行雄や犬養毅らが議会内外で桂内閣を激しく糾弾し、最終的に桂内閣をわずか53日で退陣に追い込んだ(大正政変)。2個師団増設問題は、単なる軍事予算をめぐる争いにとどまらず、のちの「大正デモクラシー」へと続く政党政治の確立に向けた、巨大な国民的運動の引き金となったのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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