陪冢 (ばいちょう)
【概説】
巨大な前方後円墳(主墳)の周囲に、計画的に配置された小規模な古墳。被葬者の近親者や臣下を埋葬した墓、あるいは大量の副葬品を納めるための貯蔵庫としての役割を持つ遺構である。
陪冢の機能と二つの性格
陪冢(ばいちょう、「陪塚」とも表記する)は、主に古墳時代中期(5世紀)の巨大前方後円墳の周囲に見られる。これらの小古墳は、主墳と同時期、あるいは極めて近い時期に築かれており、主墳の被葬者と密接な関係を持つ。その機能は、論理的に分析すると二つの性格に大別される。
一つは、主墳の被葬者に臣従した近親者や有力な家臣を葬った「墓」としての性格である。主墳を取り囲むように配置されることで、死後も主従関係や親族関係が継続していることを視覚的に表現した。もう一つは、大量の武器、武具、農工具などの鉄製品を納めた「宝庫(資材庫)」としての性格である。このタイプの陪冢は、人間を埋葬するための主体部を持たないか、あっても極めて簡略化されており、副葬品の埋納そのものを主目的としていたと考えられている。
大王権力の誇示と同時代背景
陪冢が盛んに造られた5世紀は、ヤマト政権(倭国)の大王による中央集権化と軍事外交が活発化した時期にあたる。大阪府の百舌鳥・古市古墳群に代表される巨大古墳の周囲には、多くの陪冢が配置されている。例えば、誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)の陪冢とされる野中古墳からは、大量の鉄製甲冑や武器、農工具が出土しており、これは当時のヤマト政権が軍事力や鉄資源を独占的に管理していたことを如実に示している。
このように、陪冢は単なる個別の墓にとどまらず、主墳の被葬者を中心に構成された厳格な階層秩序を周囲に知らしめる政治的モニュメントであった。卓越した大王や有力豪族の権力を、主墳を取り巻く空間的広がりをもって表現するシステムとして機能したのである。