神本仏迹説(反本地垂迹説) (しんぽんぶつじゃくせつ / はんほんじすいじゃくせつ)
【概説】
日本の神こそが宇宙の根本(本地)であり、仏や菩薩は神が衆生を救済するために仮の姿(垂迹)となってインドなどに現れたものだとする神道理論。平安時代以来の神仏習合における「本地垂迹説」を逆転させた思想であり、反本地垂迹説とも呼ばれる。鎌倉時代後期における神国思想の高揚を背景として、伊勢神道などの理論的支柱となった。
本地垂迹説からの逆転と理論的枠組み
日本の思想史において、平安時代中期から鎌倉時代前期にかけて支配的であったのは、仏教を優位とする本地垂迹説であった。これは、宇宙の真理である仏(本地)が、日本の民衆を救うため、日本の神という仮の姿(垂迹)をとって現れたとする神仏習合の論理である。これに対し、神本仏迹説(反本地垂迹説)は、その優劣関係を完全に逆転させた理論である。
すなわち、天地開闢から連なる日本の神々こそが宇宙の絶対的な根源(本地)であり、インドに現れた釈迦をはじめとする仏や菩薩は、その神々が異国の民を導くために姿を変えた仮の存在(垂迹)にすぎないとした。この理論の登場により、仏教の教理に依存していた日本の神々は、自立した存在として位置づけ直されることとなった。
元寇という時代背景と「神国思想」の高揚
神本仏迹説が鎌倉時代後期に台頭した最大の要因は、13世紀後半に日本を襲った未曾有の国難である元寇(文永の役・弘安の役)である。強大なモンゴル帝国の襲来に対し、朝廷や幕府は全国の寺社に異国降伏の祈祷を命じた。結果的に暴風雨などの影響もあって二度の侵攻を退けたことは、人々に「日本は神々によって守護されている」という強烈な神国思想を植え付けた。
この国家的危機の克服において、神々に対する信仰が大きな精神的支柱となったことで、「仏教よりも神の霊験の方が優越しているのではないか」という認識が社会全体に広がった。神本仏迹説は、このような時代の空気とナショナリズムの高揚を吸収し、神の絶対的優位性を説く思想的基盤として急速に支持を集めていくこととなる。
伊勢神道(度会神道)の成立と度会家行
神本仏迹説を初めて体系的な教理として確立したのが、伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)の神官たちによって形成された伊勢神道(度会神道)である。鎌倉時代後期、外宮の禰宜であった度会家行(わたらい いえゆき)は、『類聚神祇本源(るいじゅうじんぎほんげん)』などの著作を通じて神道独自の教理体系の構築を試みた。
度会家行は、儒教や道教の陰陽五行思想なども巧みに取り入れつつ、外宮の祭神である豊受大神を宇宙の根源神である天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)や国常立尊(くにのとこたちのみこと)と同格であると主張した。その上で、神こそが万物の本体であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説を強固に打ち立てた。これは同時に、内宮(天照大神)に対する外宮の地位向上を図るという、伊勢神宮内部の宗教的・政治的な意図も孕んだものであった。
後世の神道理論・思想史への影響
神本仏迹説が日本思想史に与えた影響は極めて大きい。伊勢神道の理論は、南北朝時代において南朝の正統性を主張した北畠親房の『神皇正統記』に強い思想的影響を与え、日本独自の歴史観の形成に寄与した。
さらに室町時代後期になると、吉田兼倶(よしだ かねとも)がこの思想をさらに推し進め、神道を根源、儒教を枝葉、仏教を果実とする吉田神道(唯一神道)を大成した。これにより、日本の神道は仏教の枠組みから完全に独立した宗教体系として完成を見ることになる。神本仏迹説は、単なる宗教的教理の逆転にとどまらず、近世の国学や幕末の尊王攘夷思想へと連なる「日本主義的」な思想的系譜の源流となったという点で、極めて重要な歴史的意義を持っている。