開成所

1863年に洋書調所から改称され、洋学だけでなく西洋科学全般を教授する総合的な機関へと発展した名称は何か?
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重要度
★★

開成所 (かいせいじょ)

1863〜1868年

【概説】
幕末の1863年に江戸幕府が設置した、洋学の教授および翻訳を行う直轄の機関。前身の洋書調所を改称・拡充したもので、語学のみならず西洋の自然科学や実用技術全般を教える総合的な教育・研究機関へと発展し、後の東京大学の主要な源流の一つとなった。

蕃書調所から開成所への改称と「開物成務」の理念

江戸幕府における洋学研究・教育機関の系譜は、1811年に高橋景保の建議によって天文方内に設置された蛮書和解御用(ばんしょわかいごよう)にさかのぼる。これがペリー来航後の1856年に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)として独立・開校され、さらに1862年には「蕃書(野蛮な国の書物)」という侮蔑的表現を避けて洋書調所へと改称された。そして1863年(文久3年)、一橋慶喜らの主導による幕政改革(文久の改革)の流れの中で、同機関は「開成所」へと改められ、神田一ツ橋に移転した。

「開成」の名は、中国の古典『易経』繋辞上にある「開物成務(万物の理を開発し、天下の務めを成し遂げる)」という言葉に由来する。この改称は、単に外国の書籍を翻訳・教授する「洋書調」の段階から脱却し、西洋の進んだ学術や技術を主体的に探究・応用して国家の近代化と富国強兵を推進するという、幕府の強い決意を示すものであった。

多岐にわたる学問・技術の教授と幕末の近代化

開成所では、それまでのオランダ語に加えて英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語などの諸語学の教育がさらに強化された。それだけでなく、数学、物理学、化学、天文学、地理学といった自然科学から、写図(製図)や活版印刷、絵画(洋画)にいたる実用的な技術までが体系的に教授された。研究陣には、日本で初めて「化学」の語を用いたとされる川本幸民や、洋学者の津田真道西周、後に静岡学問所で活躍する向山黄村ら、当時の日本を代表する最高峰の知性が集められた。

このように開成所は、単なる幕臣の子弟教育機関にとどまらず、諸藩からの留学(培臣入学)も受け入れ、西洋の最先端の知見を日本全国に普及させるナショナル・センターとしての役割を果たした。ここで培われた学術基盤は、幕末から明治期にかけての産業や軍事の近代化を支える大きな原動力となった。

明治維新後の継承と東京大学への発展

1868年(明治元年)の戊辰戦争にともなう混乱期に開成所は一時閉鎖されたが、明治新政府によって速やかに接収され、同年中に復興・再開された。その後、新政府の官制改革にともなって開成学校大学南校、さらに東京開成学校へと改称と組織改編を重ねていく。

1877年(明治10年)、この東京開成学校は、同じく幕府直轄の医学研究機関を源流とする東京医学校(旧・医学所)と合併し、日本初の近代大学である東京大学となった。開成所が担っていた法学、理学、文学などの教授内容は、東京大学の法学部、理学部、文学部などの基盤となり、日本の近代アカデミズムの形成に決定的な影響を与えた。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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