司馬江漢 (しばこうかん)
【概説】
江戸時代後期の絵師であり蘭学者。平賀源内らに洋風画を学び、1783年に日本で初めて腐食銅版画(エッチング)の制作に成功した。西洋の遠近法や陰影法を用いた風景画を描いたほか、コペルニクスの地動説を日本でいち早く紹介するなど、科学的知識の啓蒙にも尽力した人物である。
浮世絵師から洋風画家への転身
司馬江漢は初め、江戸で浮世絵師の鈴木春信に弟子入りし、「鈴木春重」の名で錦絵などの制作を行っていた。しかし、伝統的な浮世絵の平面的な描写に飽き足らなくなり、より写実的な表現を模索するようになる。その後、写生を重んじる南蘋派(なんぴんは)の画法を学んだほか、本草学者である平賀源内との交流を通じて西洋画(洋画)の存在を知り、強い衝撃を受けた。源内の紹介で、秋田藩士の小田野直武らによる「秋田蘭画」の技法にも触れ、西洋特有の陰影法や線遠近法を吸収しながら、次第に洋風画への傾倒を深めていった。
日本初の腐食銅版画の創始
江漢の画業における最大の功績は、1783(天明3)年に日本で初めて腐食銅版画(エッチング)の制作に成功したことである。当時、西洋の精密な銅版画は蘭書(オランダ語の書籍)の挿絵として日本にもたらされていたが、その制作技術は国内では未知のものであった。江漢は大槻玄沢ら蘭学者の協力を得ながら、フランスの『ショメール百科事典』のオランダ語訳版などを解読し、独学で試行錯誤を重ねた。そしてついに「三囲景図(みめぐりけいず)」などの作品を完成させたのである。これにより、日本の印刷技術や絵画表現は新たな段階へと進むこととなった。
科学思想の啓蒙と地動説の紹介
江漢の関心は単なる絵画の技法にとどまらず、西洋の合理的な科学思想そのものへと向かった。彼は絵画を「西洋の真理や科学を正確に伝えるための手段」と捉えていた。長崎に赴いてオランダ商館長と直接交流するなどして西洋の天文学や地理学を精力的に吸収し、精緻な世界地図である「地球全図」などを制作した。さらに、著書『和蘭天説(おらんだてんせつ)』や『刻白爾(コッペル)天文図解』を出版し、ニコラウス・コペルニクスの地動説(太陽中心説)を日本で初めて本格的に一般向けに解説した。
司馬江漢の歴史的意義
江戸時代後期は、鎖国体制下にありながらも、長崎を通じて西洋の学術(蘭学)が知識人の間で広がりを見せた時代である。杉田玄白や前野良沢らの『解体新書』が医学分野でのエポックメイキングであったとすれば、司馬江漢は「視覚芸術」と「天文学・地理学」の分野で西洋の合理主義を日本社会に定着させた功労者といえる。彼の活動は、一部の武士や学者の専売特許であった蘭学の知識を、出版物や版画という視覚的にわかりやすい形で広く町人層にまで普及させるという、極めて重要な文化的役割を果たしたのである。