長田忠致 (おさだただむね)
【概説】
平安時代末期の尾張国の武士。平治の乱で敗れて東国へ逃れる途上だった主君・源義朝を裏切り、入浴中に急襲して殺害した人物。のちに義朝の遺児である源頼朝によって処刑され、主君殺しの典型として後世に語り継がれた。
平治の乱と源義朝の暗殺
長田忠致は、尾張国野間(現在の愛知県知多郡美浜町)を本拠とした在庁官人、武士である。平治元年(1159年)に勃発した平治の乱において、源氏の棟梁である源義朝は平清盛らに敗北し、東国での再起を図って敗走した。その途上、義朝が身を寄せたのが、自身の乳母の夫(あるいは姻戚関係)にあたる忠致の邸宅であった。
しかし、忠致とその子・景致は、平氏政権からの追及を恐れると同時に、義朝を討ち取ることで得られる恩賞に目を奪われ、主君を裏切る計画を立てた。永暦元年(1160年)正月、忠致らは旅の疲れを癒やすために湯殿(風呂)に入っていた義朝を急襲し、だまし討ちにして殺害した。義朝の首級を京の平氏に届けた忠致は、恩賞として「壱岐守」に任じられたが、彼が望んだ国司(尾張守など)への任官には届かず、不満を抱いたと伝えられている。
頼朝の挙兵と「美濃尾張」の約束、そして最期
主君を討った忠致の命運は、義朝の遺児である源頼朝が挙兵したことで暗転する。治承・寿永の乱(源平合戦)が勃発すると、忠致は自らの保身のために頼朝の軍勢に加わった。頼朝は父の仇である忠致をすぐには討たず、「身を粉にして働けば、美濃尾張を授けよう」と告げて平氏追討戦に動員した。
忠致は美濃国と尾張国の二国を恩賞として賜るものと期待して忠勤を励んだが、平氏滅亡後の建久元年(1190年)、頼朝が上洛した際にその因果応報の最期を迎えることとなった。頼朝が告げた「美濃尾張」とは、二国の国司のことではなく、「身の終わり(命の終わり)」という冷徹なダブルミーニングであった。忠致父子は、義朝の墓前(あるいは美濃国)において引き回しの上で処刑され、その生涯を閉じた。このエピソードは、中世の武士社会における「主従の絆」の絶対性と、裏切り者に対する厳しい帰結を示す象徴的な逸話として『平治物語』などに描き残されている。