鈴木茂三郎 (すずきもさぶろう)
【概説】
大正から昭和期にかけて活躍した無産政党政治家、社会主義運動家。戦前は非コミンテルン系の労農派指導者として活動し、戦後は日本社会党左派の領袖としてサンフランシスコ平和条約への反対運動を主導した。平和憲法の擁護と非武装中立論を掲げ、戦後日本の革新勢力に大きな影響を与えた象徴的指導者である。
戦前の「労農派」活動と日本無産党の結成
愛知県に生まれた鈴木茂三郎は、ジャーナリストとして活動する中で社会主義思想に傾倒し、大正デモクラシー期から無産政党運動に身を投じた。彼は、山川均や荒畑寒村らが指導する労農派(マルクス主義の立場を取りつつも、コミンテルンの指示に盲従せず、日本における段階的・合法的な社会主義変革を目指すグループ)の有力な理論家・実践家として台頭した。
1937年、鈴木は加藤勘十らとともに日本無産党を結成し、書記長に就任して合法左派勢力の結集を図った。しかし、日中戦争の勃発にともない国家総動員体制へと傾斜する軍部・政府にとって、反ファシズムを掲げる運動は弾圧の対象となった。同年末、政府は日本無産党などを解散させ、鈴木を含む主要な労農派活動家を一斉に検挙した(人民戦線事件)。鈴木はこれにより終戦まで事実上の政治活動停止を余儀なくされたが、転向することなく信念を貫き通した。
戦後社会党の結成と「社会党左派」の確立
1945年8月の敗戦後、鈴木は直ちに社会主義勢力の結集に奔走し、同年11月の日本社会党結成に中心メンバーとして参画した。戦後の社会党内は、西尾末広らに代表される右派(社会民主主義・反共主義)と、鈴木ら旧労農派を中心とする左派(マルクス主義・容共的)の間で、主導権を巡る激しい対立が継続した。
1947年に成立した片山哲革新連立内閣が現実的な妥協を重ねて挫折すると、鈴木は「社会主義の純潔性」を主張して右派妥協路線を強く批判した。これにより、社会党内における左派の支持は急速に拡大し、鈴木は名実ともに社会党左派の最高指導者(領袖)としての地位を確立していくこととなった。
講和問題と社会党分裂、そして「55年体制」への影響
鈴木の政治キャリアにおける最大の局面は、1951年の対日講和を巡る路線対立である。当時の吉田茂内閣が推進する、西側陣営のみとの講和を目指す「単独講和」に対し、鈴木率いる左派は、ソ連や中国を含む全交戦国との「全面講和」、および日米安全保障条約への反対(非武装中立論)を強く主張した。この講和論争によって、日本社会党はついに左右に分裂することとなった。
分裂後の「左派社会党」の委員長に就任した鈴木は、逆コース(戦前回帰への動き)や再軍備に反対する世論を取り込み、国政選挙で右派社会党を上回る躍進を遂げた。1955年、保守合同(自民党の誕生)に対抗する形で左右の社会党が再統一された際、鈴木は統一社会党の初代委員長に就任した。この社会党統一と自民党結党により、日本政治の骨格となる55年体制が確立した。彼の掲げた「憲法擁護・非武装中立」というスローガンは、その後の日本の革新運動における不動のテーゼとなった。