釜山 (ぷさん)
【概説】
朝鮮半島南東部に位置する港湾都市。中世から近世にかけて、日本人の居留地および日朝交易の拠点である倭館が設置された。江戸時代においては対馬藩を介した日朝貿易や外交の最前線として、長崎の出島と並ぶ重要な窓口機能を発揮した。
日朝交流の玄関口と中世の倭館
釜山は、対馬海峡を挟んで日本(対馬)と最短距離にあるという地理的条件から、古代より日朝交流の重要な玄関口であった。室町時代、朝鮮王朝(李氏朝鮮)は海賊である前期倭寇を懐柔して統制下におくため、富山浦(現在の釜山)、乃而浦、塩浦の「三浦(さんぽ)」を開港し、日本人の居留地および交易拠点である倭館を設置した。しかし、居留する日本人の増加に伴うトラブルや朝鮮側の統制強化への反発から、1510年に三浦の乱が勃発する。その後も日朝間の貿易は細々と続いたが、16世紀末の豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮出兵)によって、日朝の国交は完全に断絶することとなった。
己酉約条の締結と釜山倭館の再建
江戸幕府を開いた徳川家康は、朝鮮との関係修復を対馬の宗氏に命じた。宗氏の長年にわたる周旋の結果、1609年に己酉約条(きゆうやくじょう)が結ばれ、国交が回復した。この条約に基づき、釜山には再び倭館(豆毛浦倭館)が設置され、対馬藩に独占的な貿易権が与えられた。その後、交易の拡大や施設の手狭さ、さらには朝鮮側の防衛上の理由などから、1678年に釜山湾の奥部へ移転し、新たに草梁(そうりょう)倭館が建設された。以後、幕末に至るまでの約200年間、この草梁倭館が日朝外交・貿易の唯一の公的な窓口として機能した。
巨大な日本人居留地「草梁倭館」と交易の実態
草梁倭館は約10万坪(約33万平方メートル)という広大な敷地を誇り、オランダ商館が置かれた長崎の出島(約4000坪)を遥かに凌ぐ規模であった。館内には対馬藩の役人、商人、通詞(通訳)、医師など常時約500人の日本人が生活空間を形成しており、館外への外出は厳しく制限されていた。ここで行われた日朝貿易では、日本側から主に銀や銅、東南アジア産の胡椒や丹木(赤色染料)などが輸出された。一方、朝鮮側からは高級薬材である朝鮮人参(オタネニンジン)や木綿、そして中国(清)産の白糸(生糸)や絹織物などがもたらされた。特に、朝鮮を中継した中国産生糸の輸入は、江戸幕府にとって長崎貿易と並ぶ重要な物資確保ルートであり、対馬藩に多大な利益をもたらした。
近代以降の釜山と日朝関係の転換
江戸時代を通じて「四つの口」の一つ(対馬口)の最前線であった釜山だが、18世紀後半以降は日本の銀の枯渇や国産化の進展などにより、日朝貿易は次第に衰退の途をたどった。明治維新後、明治新政府は従来の対馬藩を介した関係を廃止し、近代的な主権国家体制に基づく国交樹立を朝鮮側に求めた。しかし、朝鮮王朝はこれを従来の慣例に反するとして拒絶し(書契問題)、両国間には強い緊張が走った。その後、1875年の江華島事件を経て、1876年に日朝修好条規が締結されると、釜山は近代的な開港場に指定され、倭館は日本人専管居留地へと改組された。これにより、中世から続いた特権的な倭館の歴史は幕を閉じ、釜山は新たな東アジアの国際関係の波に呑み込まれていくこととなった。