藤原泰衡 (ふじわらのやすひら)
【概説】
奥州藤原氏の第4代にして、平泉の黄金文化を築いた同氏最後の当主。鎌倉の源頼朝からの強い圧力に屈し、父・藤原秀衡の遺言に背いて源義経を討伐したものの、最終的には頼朝自身による奥州征伐を招き、一族とともに滅亡へと追い込まれた。
父・秀衡の死と義経庇護の遺言
奥州藤原氏の第3代当主・藤原秀衡は、源頼朝と対立して逃れてきた源義経を平泉に匿い、頼朝への対抗勢力としようとした。しかし、1187年(文治3年)10月、秀衡は病に倒れ、死の間際に「義経を大将軍として奉じ、兄弟結束して頼朝の攻撃に備えよ」という遺言を後継者である泰衡に遺した。
家督を継いだ泰衡であったが、奥州の支配権を狙う頼朝からの圧力は日増しに強まった。朝廷を動かした頼朝は、泰衡に対して義経の引き渡しや討伐を何度も強く督促。泰衡は、父の遺言を守って頼朝と全面対決するか、あるいは義経を排除して頼朝との平和的な妥協を図るかという、極めて困難な二者択一を迫られることとなった。
頼朝の圧力と義経討伐(衣川館の戦い)
頼朝による「義経を隠匿し続けるならば奥州を討伐する」という脅迫に対し、泰衡はついに抗しきれなくなり、父の遺言を破る決断を下した。1189年(文治5年)閏4月、泰衡は数万の兵を動かして義経の居所であった衣川館(ころもがわのたち)を急襲する。
この襲撃により、義経の郎党である弁慶らは奮戦したものの討ち取られ、義経自身も持仏堂に籠もって自害を遂げた。泰衡は義経の首を酒に浸して黒漆の櫃に納め、鎌倉へと送った。これは頼朝に対して絶対の臣従を示すことで、奥州への軍事侵攻を回避するための泰衡なりの政治的選択であった。
奥州合戦と奥州藤原氏の滅亡
しかし、頼朝の真の狙いは単なる義経の排除ではなく、独立国家のような強大な経済力・軍事力を維持していた奥州藤原氏そのものを平定し、東国支配を完璧なものにすることにあった。頼朝は、泰衡が事前に宣旨(朝廷の許可)を得ずに勝手に義経を討ったことを口実に、同年7月、全国に動員令を下して大軍で奥州へ侵攻を開始した(奥州合戦)。
泰衡は異母兄の藤原国衡らとともに、阿津賀志山(現在の福島県国見町周辺)の防衛線で鎌倉勢を迎え撃ったが、圧倒的な兵力差の前に敗退。泰衡は本拠地である平泉に火を放って北方の蝦夷地方面へと逃亡した。逃亡の途上、泰衡は信頼していた比内郡の郎党・河田次郎に裏切られ、贄柵(現在の秋田県大館市)にて殺害された。これにより、約100年にわたり陸奥・出羽を支配した奥州藤原氏は滅亡した。泰衡の首は頼朝のもとに届けられた後、平泉の中尊寺金色堂に納められ、現在も父祖らの遺体とともに眠っている。