後一条天皇

一条天皇と藤原彰子の子で、わずか9歳で即位したため、祖父である藤原道長が摂政として権力を振るった天皇は誰か。
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後一条天皇 (ごいちじょうてんのう)

1008〜1036年

【概説】
平安時代中期の第68代天皇。一条天皇の第二皇子で、母は藤原道長の長女である彰子。わずか9歳で即位し、外祖父となった藤原道長が摂政に就任したことで、摂関政治の全盛期を象徴する天皇となった。

幼少での即位と藤原道長による権力掌握

後一条天皇(諱は敦成親王)は、一条天皇と中宮・藤原彰子の間に生まれた。当時、朝廷では実権を握ろうとする藤原道長と、それに抵抗する三条天皇との間で激しい政治的対立が続いていた。道長は眼病を患った三条天皇に対して執拗に譲位を迫り、1016年(長和5年)、ついに自らの血を引く敦成親王の即位を実現させた。これが後一条天皇である。

後一条天皇はわずか9歳(数え年)で即位したため、政治を行う能力はなかった。これに伴い、道長は天皇の外祖父(母方の祖父)として天皇を補佐する摂政に就任した。天皇の幼少期に乗じて摂政となり、国政を完全に掌握するこの手法により、藤原北家による摂関政治はその基礎を不動のものとしたのである。

摂関政治の絶頂と「望月の歌」

後一条天皇の在位期は、摂関政治がまさに頂点に達した時期であった。道長は翌1017年に摂政の地位を長男の藤原頼通に譲り、自らは出家したものの、実質的な権力者として君臨し続けた。1018年(寛仁2年)には、後一条天皇の皇后(中宮)に道長の三女である藤原威子が立てられた。これにより、道長の娘が太皇太后(彰子)、皇太后(妍子)、中宮(威子)という朝廷の三后を独占する空前絶後の事態が実現した。

この威子の立后の宴において、道長が自身の栄華を誇って詠んだのが、有名な「この世をば わが世とぞ思う もち月の かけたることも なしと思えば」の歌である。後一条天皇の存在は、道長・頼通父子による「御堂関白家」の絶対的な権力を制度的・血縁的に支える象徴として、日本史において極めて重要な位置を占めている。

藤原道長「御堂関白記」を読む (講談社学術文庫 2790)

藤原道長自らが書き記した直筆日記を読み解き、栄華の絶頂にあった権力者の素顔と当時の政界を浮き彫りにする貴重な一冊。

摂関政治と地方社会 (5) (日本古代の歴史 5)

律令国家の変容期における地方支配の実態と、中央の摂関政治がいかにして地域社会を統制したのかを追究する歴史研究の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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