後朱雀天皇

高校日本史的重要度

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後朱雀天皇 (ごすざくてんのう)

1009年〜1045年

【概説】
平安時代中期の第69代天皇(在位1037年〜1045年)。藤原道長の外孫として生まれ、道長の子である関白藤原頼通が実権を握る摂関政治の全盛期に在位した。その治世の終盤、頼通の反対を押し切って藤原氏を外祖父としない尊仁親王(のちの後三条天皇)を東宮に立て、摂関政治衰退の引き金を引いたことで知られる。

摂関家との緊密な血縁と即位

朱雀天皇は、一条天皇の第3皇子として誕生した。名は敦良(あつなが)親王。母は藤原道長の長女である彰子(上東門院)であり、前代の後一条天皇の同母弟にあたる。1036年に兄の後一条天皇が後嗣(男子)を欠いたまま崩御したため、翌1037年に即位した。治世中は道長の後継者である叔父・藤原頼通関白として政権を主導し、藤原摂関家との強固な連携のもとで朝廷の政務が運営された。

摂関政治の変容と「後三条天皇」への布石

朱雀天皇の治世は摂関政治の安定期のように見えるが、摂関家との関係において大きな火種を抱えていた。頼通は自身の娘を天皇の後宮に入れ、摂関家を外戚とする皇太子の誕生を熱望したが、男子に恵まれなかった。一方で、天皇と三条天皇の皇女である皇后・禎子内親王(陽明門院)との間には、尊仁(たかひと)親王が生まれていた。頼通は藤原氏の血を引かない尊仁親王の立太子を嫌い、これを忌避しようとした。

しかし1045年、病が重篤となった後朱雀天皇は、長男の後冷泉天皇への譲位に際し、頼通の反対を押し切る強い意志を示して尊仁親王を東宮(皇太子)に立てることに成功した。この尊仁親王が、のちに藤原氏を外戚としない170年ぶりの天皇として即位する後三条天皇であり、その親政摂関政治の終焉と院政期の到来を告げることとなる。後朱雀天皇のこの決断は、日本史における権力構造の大きな転換点を用意したといえる。

最終更新:
2026年6月25日 @ 22:53

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