野球

高校日本史的重要度
★★

【参考リンク】

野球

1872年伝来

【概説】
明治時代初期にお雇い外国人によって日本に伝えられた近代スポーツ。第一高等中学校(のちの一高)などの学生を中心に爆発的な流行を見せ、日本のスポーツ文化の基礎を築いた。

お雇い外国人による伝来と初期の受容

日本における野球の歴史は、1872(明治5)年に第一大学区第一番中学(のちの東京大学)のお雇い外国人教師であったアメリカ人のホーレス・ウィルソンが、授業の合間に学生たちに教えたことに始まる。明治維新直後の日本において、西洋の学術や制度を導入する「文明開化」の一環として、近代スポーツもまた日本に流入した。当初は「打球戯」などと呼ばれ、1878年にはアメリカ留学から帰国した平岡熙(ひらおかひろし)によって、日本初の本格的野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」が結成されるなど、都市部のエリート層を中心に徐々に普及していった。

「一高野球部」の黄金時代とナショナリズム

明治中期、野球は旧制高校や大学の学生たちの間で熱狂的な支持を集めるようになる。その中心となったのが第一高等中学校(一高)の野球部であった。一高野球部は厳しい規律と猛練習による「精神野球」を掲げ、1896(明治29)年には横浜の外国人居留民チーム(YCAC)に大勝を収めた。日清戦争の勝利率とも重なるこの時期、メディアは一高の勝利を「国威発揚」の快挙として報じ、野球は単なる娯楽から「日本の近代化の成果を示すスポーツ」として認知されるようになった。この一高の活躍が、全国的な野球ブームの起爆剤となったのである。

正岡子規の貢献と「野球」という訳語の誕生

この時代、野球は文学や言語の面でも日本の文化に深く根を下ろした。俳人・歌人として知られる正岡子規は、松山の中学時代や東京の予備校時代に野球に熱中し、自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで「野球(のぼーる)」という雅号を用いるほどであった。子規はベースボールを短歌や俳句に詠み込んだほか、「打者」「走者」「直球」「死球」などの日本語訳を考案し、日本における野球の普及に大きく貢献した。なお、「ベースボール」を「野球(やきゅう)」と正式に翻訳したのは、一高のOBで教育者の中馬庚(ちゅうまんかなえ)であり、1894(明治27)年のことであった。明治後期には早稲田大学と慶應義塾大学による早慶戦(1903年開始)がスタートし、野球は国民的な人気スポーツとしての地位を確立していくこととなる。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:39

日本史一問一答(ランダム)

Q. 越後国にあった紫雲寺潟を、江戸時代中期に豪農などが干拓して造成した大規模な新田は何か。
Q. 9世紀後半に、明法家としての知識を活かして私的な令の注釈書である『令集解』を著した人物は誰か?
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