道康親王 (みちやすしんのう)
827年〜858年
【概説】
平安時代初期の皇族で、のちの第55代文徳天皇。仁明天皇の第一皇子であり、母は藤原冬嗣の娘・順子である。842年の承和の変によって皇太子に擁立され、藤原北家が台頭する政治的契機となった人物である。
承和の変と他氏排斥による立太子
道康親王は、仁明天皇と藤原冬嗣の娘である順子の間に生まれた。当時の皇太子には、嵯峨上皇の意向により恒貞親王(淳和天皇の皇子)が立てられていた。しかし、842年(承和9年)に政権の後盾であった嵯峨上皇が崩御すると、藤原良房(冬嗣の嫡男で道康親王の伯父)らは、恒貞親王を擁立して謀反を企てたとして伴健岑や橘逸勢らを処罰した。これが承和の変である。
この政変によって恒貞親王は皇太子を廃され、代わりに良房の血を引く道康親王が東宮に立てられた。この事件は、伴氏や橘氏といった伝統的な古参氏族を中央政界から排斥し、藤原北家が皇室との外戚関係を構築して権力を独占していく契機となった点で、日本政治史上きわめて重要な意味を持っている。
文徳天皇としての即位と外戚政治の確立
850年(嘉祥3年)、仁明天皇の譲位に伴い、道康親王は即位して文徳天皇となった。天皇は文人肌で才気ある第一皇子・惟喬親王を寵愛し、彼を次の東宮に望んだ。しかし、惟喬親王の母は紀氏(紀静子)の出身であったため、藤原北家による外戚独占を狙う良房はこれに猛反対した。
良房は、自身の娘である明子が産んだ生後わずか数ヶ月の第四皇子・惟仁親王(のちの清和天皇)を東宮に立てるよう強く迫り、天皇はこれに抗しきれず屈服させられた。文徳天皇の短い治世と、その後の清和天皇の幼少での即位(良房の人臣最初の摂政就任)は、皇位継承が藤原北家の意向によって決定される摂関政治の成立を決定づけることとなった。