謀叛人の逮捕

守護の大犯三カ条のうち、幕府や国家に対する反逆者を捕まえる任務を何というか?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
天平(Wikipedia)

謀叛人の逮捕 (むほんにんのたいほ)

1185年~

【概説】
鎌倉幕府が諸国に設置した守護の基本職権である「大犯三カ条」の一つ。国家の支配秩序や幕府の体制に叛逆した「謀叛人」を追捕・検束する軍事・警察権権限。源頼朝による守護・地頭の設置に始まり、武家政権が公領・荘園を問わず全国的な治安維持権を掌握する法的根拠となった。

守護の基本職権「大犯三カ条」と謀叛人逮捕の意義

1185年(文治元年)、源頼朝は弟・源義経らの追捕を名目に、朝廷から国ごとに守護、荘園・公領ごとに地頭を設置する宣旨(文治の勅許)を獲得した。守護の職務は、地域の武士を統制し治安を維持することにあったが、その権限を明確に限定したものが大犯三カ条(たいはんさんかじょう)である。大犯三カ条は、「京都大番役の催促」「大番役以外の殺害者の逮捕」、そして「謀叛人の逮捕」から構成されていた。

このうち「謀叛人の逮捕」は、国家や東国政権(幕府)に対する反乱分子を抑え込むための最も強力な軍事・警察権であった。中世日本において、天皇や朝廷に対する叛逆は「朝敵」、鎌倉殿(将軍)に対する叛逆は「謀叛」とされ、これらを迅速に鎮圧することは政権の存立に関わる最重要課題であった。守護がこの権限を行使することにより、幕府は諸国の武士を軍事的に動員し、反乱勢力を速やかに追捕するシステムを構築したのである。

公家領・荘園への介入と守護権限の拡大

本来、平安時代から続く律令制や荘園公領制のもとでは、各土地の治安維持や犯罪者の検断は国司や荘園領主(本所)が有する固有の権限(検断権)であった。しかし、守護に「謀叛人の逮捕」および「殺害者の逮捕」の権限が与えられたことで、幕府の権力が国衙領や荘園の内部にまで合法的に浸透することとなった。謀叛人などの重大犯罪者が逃げ込んだ場合、守護の使者は領主側の許可を得ずにその土地へ立ち入る(守護不入の否定)ことが可能となったためである。

1232年(貞永元年)に制定された幕府の基本法典『御成敗式目(貞永式目)』の第3条においても、守護の職務はこれら大犯三カ条に厳しく限定され、国司や荘園領主の行政への不当な介入は禁止された。これは幕府と朝廷・荘園領主側との権益衝突を避けるための融和策であったが、実際には「謀叛人」や「殺害者」の定義を都合よく拡大解釈することで、守護による領地侵入や武士の囲い込みが常態化していった。この軍事警察権の掌握こそが、のちに守護が独自の領国支配を展開し、南北朝時代以降に「守護大名」へと成長していく歴史的足がかりとなったのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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