蝦夷地(江戸時代) (えぞち)
【概説】
現在の北海道、千島列島、および樺太(サハリン)を含む広大な地域の総称。主にアイヌ民族が居住する領域であり、江戸時代を通じて松前氏(松前藩)が江戸幕府から交易の独占権を公認されていた。江戸時代後期にはロシアの南下政策に伴う国防上の危機から幕府の直轄領とされるなど、近代日本の国境画定において極めて重要な役割を果たした地域である。
松前藩の成立と「商場知行制」
蝦夷地には中世より和人(本土の日本人)が進出し、道南の一部に定着していた。江戸幕府が成立すると、1604年に徳川家康は松前慶広に対して黒印状を下付し、アイヌ民族との交易独占権を公認した。これにより松前氏は大名格として扱われ(松前藩)、蝦夷地における特権的な支配権を確立した。
松前藩の支配領域は、和人が居住する道南の「和人地」と、アイヌが居住する「蝦夷地」に厳格に区分された。寒冷地であり米の収穫が見込めないという地理的条件から、松前藩は家臣に対して土地を与える代わりに、蝦夷地内に設けられた交易拠点(商場)での交易権を与える商場知行制(あきないばちぎょうせい)を採用した。これにより、蝦夷地は日本の石高制の枠外にありながら、幕藩体制の経済圏へと徐々に組み込まれていった。
アイヌ民族の蜂起と「場所請負制」への転換
和人との交易において、当初は対等であったアイヌとの関係も、和人側が次第に不当な交換レートを強いるようになり、アイヌ社会に深刻な不満をもたらした。1669年にはアイヌの首長シャクシャインが和人に対して大規模な蜂起を起こすシャクシャインの戦いが勃発したが、松前藩によって鎮圧された。これを機に、和人のアイヌに対する絶対的優位が確立されることとなった。
18世紀に入ると、松前藩は財政悪化を打開するため、商場での交易権を和人商人(特権商人)に委ねて運上金を納めさせる場所請負制へと移行した。これにより、商人は単なる交易にとどまらず、漁場におけるアイヌの過酷な労働使役を強化していった。1789年には、過酷な労働を強いられた国後島や目梨地方のアイヌが蜂起するクナシリ・メナシの戦いが起こるなど、蝦夷地における民族的・経済的矛盾は限界に達していた。
ロシアの南下と幕府の蝦夷地直轄化
18世紀後半になると、千島列島から南下してきたロシア帝国が蝦夷地に接近し始める。1792年のラクスマンの根室来航や、1804年のレザノフの長崎来航などにより、日本に北方の国防危機(北方問題)が表面化した。幕府は最上徳内や近藤重蔵らに蝦夷地探検を命じ、北方情勢の把握と地理的知見の拡大に努めた。とりわけ間宮林蔵による探検(1808〜1809年)では、樺太が島であることが確認される(間宮海峡の発見)など、大きな成果を挙げた。
幕府は、松前藩単独での防衛は困難であると判断し、1799年に東蝦夷地を、1807年には西蝦夷地を含む全蝦夷地を幕府の直轄領(第一次幕領期)とした。幕府は松前奉行を設置して沿岸警備を固めるとともに、アイヌに対する過酷な支配の緩和(撫育政策)や和風化の強制を試み、北方防衛の最前線としての蝦夷地の統治体制を抜本的に再編した。
幕末の動乱から「北海道」の誕生へ
ゴローウニン事件の解決などにより日露関係が一時的に緊張緩和に向かうと、1821年に蝦夷地は再び松前藩に返還された。しかし、1853年のペリー来航と同時期のロシア使節プチャーチンの来航により、再び国防上の危機が訪れる。1854年の日米和親条約で箱館が開港され、翌1855年の日露和親条約によって択捉島以南が日本領、得撫島以北がロシア領と国境が明確に画定された。
これに伴い、幕府は再び蝦夷地を直轄領とし(第二次幕領期)、箱館奉行を置いて五稜郭などの要塞を築き、防衛と開拓を推進した。江戸時代を通じて異域として扱われながらも徐々に幕藩体制に組み込まれた蝦夷地は、明治維新後の1869(明治2)年に開拓使が設置されたことに伴い北海道と改称され、近代的な国民国家の不可分な領土として本格的に統合されていくこととなる。