藤原時平 (ふじわらのときひら)
【概説】
平安時代前期の公卿・政治家。初の関白を務めた藤原基経の長男であり、醍醐天皇の即位後に左大臣として政権を主導した人物。政敵である右大臣・菅原道真を讒言によって失脚させた「昌泰の変」の首謀者として知られる一方、「延喜の治」と呼ばれる国政改革を推進した実務派の政治家でもある。
菅原道真との対立と「昌泰の変」
藤原時平が歴史上最もその名を知られる契機となったのが、901年(昌泰4年)に起きた昌泰の変(しょうたいのへん)である。時平の父である藤原基経の死後、宇多天皇は藤原氏の権勢を抑制するため、学者出身の実務官僚であった菅原道真を重用した。宇多天皇が醍醐天皇に譲位した後も、道真は右大臣に昇進し、左大臣となった時平と並んで政権の双璧を担うこととなった。
しかし、名家出身ではない道真の急速な台頭は、時平をはじめとする藤原氏一門のみならず、伝統的な貴族層の反発を招いた。時平は醍醐天皇に対し、道真が天皇を廃立して自らの娘婿である斉世親王(醍醐天皇の弟)を擁立しようと企てていると密告(讒言)した。これを信じた醍醐天皇により、道真は大宰権帥へと左遷され、事実上の失脚に追い込まれた。この事件により、時平は朝廷における圧倒的な主導権を握ることに成功し、藤原氏の氏長者としての地位を確固たるものにした。
「延喜の治」における国政改革の断行
政敵を排除した時平は、醍醐天皇を補佐して積極的な政治改革に取り組んだ。この時期の政治は、後世に「延喜の治」と称えられ、律令体制の再建を目指す画期的な改革が行われた。
特に重要な政策が、902年(延喜2年)に出された延喜の荘園整理令である。これは違法な荘園の拡大を制限し、公地公民制の形骸化を防ぐことを目的としたものであった。また、この年には記録上最後となる班田収授が実施されたほか、律令の補足・施行細則である『延喜格』『延喜式』の編纂や、最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の編纂事業にも着手した。時平は単なる権力闘争の勝者にとどまらず、衰退しつつあった律令国家の体制維持に尽力した、優れた行政官としての側面も持っていた。
若き死と「怨霊伝説」による評価
精力的に国政改革を推し進めた時平であったが、909年(延喜9年)、39歳の若さで病没した。彼の早すぎる死は、大宰府で無念の死を遂げた菅原道真の怨霊の祟りによるものと噂された。
その後、時平の血統を継ぐ者や醍醐天皇の関係者が相次いで急死し、さらには内裏の清涼殿に落雷があるなど、都で天変地異が相次いだ。これにより道真の怨霊信仰(天神信仰)が急速に広まる一方、時平は歌舞伎などの後世の創作物において「国家を揺るがす稀代の悪人」として描かれることが多くなった。しかし近年の歴史学においては、律令制の限界を見極め、新たな国家体制(王朝国家体制)への移行期において現実的な改革を試みた先駆的な政治家として、その事績が再評価されている。