正徳金銀
【概説】
江戸時代中期に新井白石が物価高騰(インフレーション)を抑制するため、元禄金銀を改鋳して初代将軍家康の時代の慶長金銀と同等の高い品質に戻した貨幣。1714年(正徳4年)に発行された。幕府の威信回復と物価安定を目的としたが、結果的に深刻なデフレーションと経済停滞を引き起こすこととなった。
元禄期の貨幣改鋳とインフレーション
5代将軍徳川綱吉の時代、幕府の財政は深刻な悪化に直面していた。この危機に対し、勘定吟味役(のち勘定奉行)の荻原重秀は、金銀の含有量(品位)を落として貨幣の流通量を増やし、そこから得られる改鋳利益(出目)によって財政赤字を補填しようと試みた。こうして1695年(元禄8年)に発行されたのが元禄金銀である。これにより幕府財政は一時的に潤ったが、貨幣の質の低下と流通量の急増は貨幣価値の下落を招き、深刻な物価高騰(インフレーション)を引き起こした。さらにその後の宝永期にも度重なる改鋳が行われ、経済界の混乱は頂点に達していた。
新井白石の貨幣観と荻原重秀の罷免
6代将軍徳川家宣の時代になると、朱子学者である新井白石が幕政を主導するようになる(正徳の治)。白石は「貨幣は天地の公たる宝」であり、その価値は含有される金・銀の質によって決まるとする金属主義的な貨幣観を持っていた。そのため、貨幣を単なる国家の信用に基づく名目的なものと考え、「極端に言えば瓦礫であっても印さえあれば通用する」と主張する荻原重秀の政策を激しく批判した。白石は、物価高騰で苦しむ民衆を救い、幕府の威信を回復するためには、貨幣の品質を初代将軍徳川家康の時代の水準に戻すことが不可欠だと考えた。最終的に白石は重秀の不正を弾劾して失脚させ、自身の理想とする貨幣制度の改革に乗り出した。
慶長金銀への復帰と正徳金銀の発行
1714年(正徳4年)、7代将軍徳川家継の代に、白石の主導のもとで金銀の改鋳が断行された。これが正徳金銀である。正徳金(正徳小判)の金の含有率は約84%とされ、元禄小判の約57%、宝永期の小判のさらに低い水準から大幅に引き上げられ、文字通り初期の慶長金銀とほぼ同等の品位に復帰した。白石はこれにより、貨幣の信用を取り戻し、物価を安定させることができると確信していた。
流通量の激減と深刻なデフレーションの招来
品質を大幅に向上させた正徳金銀の発行は、確かにインフレーションを終息させることには成功した。しかし、旧貨幣(元禄・宝永金銀)複数枚と引き換えに新貨幣(正徳金銀)一枚を渡すという交換比率となったため、市中に出回る貨幣の流通量が劇的に減少してしまった。その結果、急激な物価下落(デフレーション)が発生し、経済の血液とも言える貨幣が不足したことで深刻な不況に陥った。特に米価が暴落したため、年貢米を換金して生活していた武士階級は困窮し、商人や農民の生活も圧迫された。
白石の朱子学的な理想主義に基づく経済政策は、発展しつつあった江戸時代の貨幣経済の実態に合致していなかったと言える。この深刻なデフレ不況からの脱却は、のちの8代将軍徳川吉宗による享保の改革において、元文金銀の発行(品位の引き下げと流通量増大)という実質的なリフレーション政策への転換を待たねばならなかった。