絵踏(踏絵) (えぶみ・ふみえ)
【概説】
江戸時代に幕府がキリシタン(キリスト教徒)を発見・摘発するため、キリストや聖母マリアの像を踏ませた制度およびその行為。厳密には、踏ませる行為や制度そのものを「絵踏」、その際に使用された像などの道具を「踏絵」と呼んで区別する。幕府の徹底した禁教政策と思想統制の象徴として機能した。
禁教政策の強化と絵踏の導入
江戸幕府は成立当初からキリスト教を警戒していたが、1612年(慶長17年)の禁教令以降、本格的な弾圧へと転換した。宣教師の追放や信徒への棄教の強要が進む中、潜伏しているキリシタンをあぶり出すための具体的な手段として考案されたのが絵踏である。1629年(寛永6年)頃、長崎奉行の水野守信の発案によって始められたとされている。キリスト教において神聖視されるキリストや聖母マリアの像をあえて足で踏ませることで、信仰を捨てていない者を心理的な抵抗感から発見しようとする、極めて巧妙かつ冷酷な思想調査であった。
「踏絵」の変遷と道具としての発達
歴史学上、行為を示す「絵踏」に対し、実際に踏まされた道具は「踏絵」と呼ばれる。初期の踏絵には、宣教師から押収した紙のキリスト教画(紙踏絵)や木製のレリーフ(木踏絵)が使用されていた。しかし、毎年のように多くの人々に踏ませるうちに、これらは激しく摩耗し、画像が判別できなくなってしまった。そこで幕府は、1669年(寛文9年)に長崎の鋳物師である萩原祐佐らに命じ、銅や真鍮を用いた堅牢な板踏絵(真鍮踏絵)を新たに鋳造させた。これにより、全国規模で恒久的に絵踏を実施できる物理的な体制が整えられたのである。
宗門改制度との結びつきと年中行事化
1637年(寛永14年)に発生した島原・天草一揆(島原の乱)は、幕府にキリシタンの脅威を再認識させ、禁教政策はさらに過酷なものとなった。これに伴い、当初は長崎や九州の一部で行われていた絵踏は、全国の幕領や諸藩へと拡大していく。絵踏は、全住民を特定の寺院に所属させる寺請制度(宗門改制度)と強力に結びついた。毎年、正月から春にかけて行われる「宗門改」の際、役人の立ち会いのもとで家族全員(歩けない幼児さえも親に抱かれて)が踏絵を踏むことが義務付けられ、その結果は宗門人別改帳に厳重に記録された。こうして絵踏は、単なるキリシタン摘発の枠を超え、民衆が幕府の権力に絶対的に服従していることを毎年証明させる、一種の「年中行事」として社会に定着していったのである。
絵踏の終焉と歴史的意義
200年以上にわたって続けられた絵踏であったが、幕末の開国によって転機を迎える。1856年(安政3年)に結ばれた日蘭和親条約においてオランダ人に対する絵踏の免除が規定され、翌1857年(安政4年)には、長崎や下田などの開港場において、外国人の反発を招く踏絵の制度そのものが廃止された。ただし、キリスト教の信仰自体が公認されたわけではなく、日本人の禁教が完全に解かれたのは、明治政府が1873年(明治6年)にキリシタン禁制の高札を撤去してからのことである。
絵踏は、個人の内面的な信仰や思想を国家権力によって強制的に暴き出し、統制しようとした日本史上の特異な制度である。現在でも、人の主義主張や忠誠心を試す行為を比喩的に「踏み絵」と呼ぶように、この制度が日本社会の精神構造や歴史に遺した影響は極めて大きい。