穢多・非人 (えた・ひにん)
【概説】
江戸時代の身分制度において、社会の最下層に位置づけられ、不当な差別と偏見に晒された被差別身分の総称。特定の職業や社会的役割を担うことで社会秩序を支えたが、生活や婚姻など多方面で厳しい制約を受けた。1871(明治4)年の「解放令」により制度上は廃止されたが、実質的な差別解消には至らず、近代以降の部落問題へと繋がった。
近世身分社会における「穢多」と「非人」の役割と実態
近世の日本社会における身分制度は、支配層である「士(武士)」と被支配層である「農・工・商(平民)」に大別されていたが、その枠外に置かれたのが「穢多」および「非人」と呼ばれた人々であった。これらの身分は、単なる貧困層ではなく、独自の社会秩序や職能集団を構成していた。
「穢多」は、主に死牛馬の処理、皮革の加工・製造、武具の制作、刑場の執行などの役を担う世襲の身分であった。これらは社会的に不可欠な産業・技術であり、江戸幕府や諸藩から独占的な営業権(特権)を認められていたものの、神道や仏教に基づく「穢れ(けがれ)」の観念と結びつけられ、住居地を制限されるなど不当な蔑視の対象とされた。
これに対し「非人」は、芸能や清掃、門付け(かどづけ)、刑罰の端役などを担った身分である。非人には「抱非人(かかえひにん)」と呼ばれる世襲の者のほか、生活苦や犯罪などから非人身分に転落した「野非人(のひにん)」も含まれていた。非人は、一定の条件を満たせば「平民」へ復帰できる(身分引き上げ)道が残されていた点で、世襲が絶対的であった穢多とは性質を異にしていた。
明治維新と「解放令」の布告、そして差別構造の変容
明治維新を迎えると、新政府は近代国家の建設に向けて、四民平等の原則に基づく社会構造の再編に着手した。その一環として、1871(明治4)年8月、太政官布告第440号、通称「解放令」(身分引分・職業自由の布告)が出された。これにより、従来の「穢多」「非人」などの呼称は廃止され、身分や職業の上で平民と同様の扱いを受けることとなった。
しかし、この「解放令」は法的な形式上の平等を謳ったに過ぎず、被差別民に対する実質的な生活支援や経済的救済策は伴わなかった。それどころか、従前の特権であった死牛馬処理や皮革加工の独占権が廃止されて自由競争に晒されたこと、また新たに地租や徴兵の義務が課されたことにより、多くの元被差別民はさらなる経済的窮乏に直面することとなった。
さらに、周囲の平民層による偏見や拒絶反応は根強く残り、「新平民」という新たな蔑称が生まれるなど、社会的な実質的差別は温床として残され続けた。この結果、解放令に対する不満や差別感情から、一部地域では平民による「解放令反対一揆(いわゆる新平民一揆)」が発生する事態へと発展した。この未解決の差別構造は、大正期以降の全国水平社の結成をはじめとする自主的な解放運動、そして現代に続く部落問題へと地続きでつながっていくこととなる。