丁髷 (ちょんまげ)
【概説】
江戸時代から明治初期にかけて、日本の成人男性の間で広く結われた伝統的な髪型。前頭部から頭頂部を剃り上げる「月代(さかやき)」を作り、残った髪を結って頭上に折り載せたもの。明治政府による1871年の「散髪脱刀令」を契機に急速に衰退し、近代化(文明開化)の過程で姿を消した。
「月代」と「髷」の起源と変遷
江戸時代の男性のシンボルとも言える丁髷の構造は、前頭部から頭頂部にかけて髪を剃る月代(さかやき)と、後頭部や側頭部の髪を束ねて頭上に載せる髷(まげ)の2つの要素から成る。月代の起源は平安時代末期から鎌倉時代に遡る。戦国時代において、武士が兜を被った際に頭部が蒸れるのを防ぎ、また血のぼりを防ぐ目的で、頭頂部の髪を抜いたのが始まりとされる。戦国期までは実用的な目的であったが、江戸時代の天下泰平の世になると、月代は髪を「剃る」ものへと変化し、武士の「公の場における身だしなみ(礼装)」として制度化された。
やがてこの風習は庶民にも広がり、身分や職業、流行に応じて様々な髷の形が生まれた。代表的なものとして、武士の間で流行した美しくスマートな本多髷(ほんだまげ)や、町人に好まれた太い髷などがある。厳密には「丁髷」とは、江戸時代後期に老人などが結った、髪が薄く「ゝ(ちょん)」の字に似た簡素な髷を指す言葉であったが、近代以降は江戸時代の男髷全般を指す通称として広く使われるようになった。
散髪脱刀令と文明開化による衰退
明治維新を迎えると、新政府は日本が欧米列強と対等な「文明国」であることを示すため、また旧来の身分制や因習を打破するために、急速な近代化政策を推進した。その一環として、1871(明治4)年8月に発令されたのが散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい)である。これにより、髪型を自由(散髪)にすることや、士族の特権であった帯刀を廃止することが許可(事実上の推奨)された。
当時、世間では「半髪頭(丁髷)をたたいてみれば、因循姑息の音がする。総髪頭をたたいてみれば、王政復古の音がする。ジャンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」という流行歌が流行し、旧来の丁髷は「時代遅れ」や「野蛮」なものとみなされるようになった。さらに1873(明治6)年に明治天皇が自ら断髪したことで、国民の間でもジャンギリ頭(洋風の短髪)への移行が決定的なものとなった。
近代移行期における葛藤と抵抗
丁髷からジャンギリ頭への移行は平坦な道のりばかりではなかった。長年親しんだ伝統的な髪型や、身分の象徴としてのプライドを守ろうとする保守的な士族や地方の農民の間では、断髪に対する強い心理的抵抗があった。一部の地域では、政府の急速な西洋化政策への反発から「断髪反対一揆」が発生する事態も起きた。また、女性の間でも同様に近代化の波が押し寄せ、明治政府は1872年に女性の断髪禁止令を出すなど、髪型を巡る社会的な混乱と議論は明治初期の過渡期における象徴的な出来事であった。このように、丁髷の消滅は単なる流行の変遷にとどまらず、日本が近世の身分社会から近代国家へと脱皮する過程をビジュアル面から物語る歴史的現象であった。