散髪脱刀の勝手 (さんぱつだっとうのかって)
【概説】
1871年(明治4年)に明治政府が発した、髪型を自由にし、帯刀を差し控えることを国民の自由(勝手)とした太政官布告。江戸時代の身分秩序の象徴であった髷(まげ)や帯刀を否定し、近代化と「文明開化」を推進した象徴的な法令である。
文明開化の推進と「勝手」の持つ意味
明治政府は、欧米列強に対抗できる近代国家を形成するため、社会制度や生活習慣の西洋化(文明開化)を急いだ。江戸時代における頭髪の形状(髷)や帯刀は、単なる風俗ではなく身分表示の極めて重要な手段であった。これらを「個人の勝手(自由)」に任せるとしたのが、1871年8月9日に発令された散髪脱刀の勝手(俗に散髪脱刀令、断髪令とも呼ばれる)である。この布告は国民に西洋風の生活を強制するものではなく、あくまで「自由」とした点が特徴である。しかし、その背景には、前近代的な風習を改めることで、国際社会に対して日本が「文明国」であることをアピールしたいという新政府の強い意図があった。
「ざんぎり頭」の流行と社会の受容
布告が出された当初、長年の習慣や儒教的な「身体髪膚これを父母に受く」という観念から、進んで髷を切り落とす者は一部にとどまっていた。しかし、1873年(明治6年)に明治天皇自らが断髪し、それが新聞等で報じられると、庶民の間にも一気に断髪が普及した。これにより流行した髪型は「ざんぎり頭」と呼ばれ、「半髪頭(はんぱつあたま)をたたいてみれば、因循姑息の音がする。ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」という流行歌とともに、新しい時代の象徴となった。一方で、流行に乗って勝手に髪を切る女性が続出したため、東京府が「女子断髪禁止令」を出すなど、急激な意識の変化に伴う摩擦も発生した。
士族特権の解体と「廃刀令」への伏線
この布告のもう一つの極めて重要な歴史的意義は、武士(士族)の身分的特権であった帯刀の任意化である。帯刀はかつての武士にとって最大のアイデンティティであり、誇りそのものであった。新政府はこれを「勝手」とすることで、穏健な形で帯刀の習慣を消滅させ、新政府が掲げる「四民平等」を実質化しようとした。この段階的な特権剥奪の方針は、5年後の1876年(明治9年)に、軍人や警察官らを除き帯刀を全面的に禁止する廃刀令へと結実する。しかし、この一連の士族特権の解体は、秩禄処分などとあわせて士族層に強い不満を抱かせることとなり、後の明治初期における一連の士族反乱を引き起こす要因の一つとなった。