租 (そ)
【概説】
律令制下において、人民に課された最も基本的な税の一つ。班田収授法に基づいて支給された口分田などの面積に応じて課され、収穫した稲(もみ)の約3%を納める制度。
班田収授法と連動した律令期の基本税制
日本の律令制における税制は、唐の租庸調制を範として整備された。その中核をなす「租」は、土地を対象とする賦課であり、国から原則として6歳以上の男女に与えられた口分田(くぶんでん)の面積に応じて課された。税率は収穫高の約3%(一段につき二束二把)と比較的低く抑えられており、原則として豊凶に関わらず一定の基準で徴収された。
この税制は、国家が土地と人民を直接支配する公地公民制および、定期的に戸籍を作成して田地を配分する班田収授法が機能していることを大前提としていた。租を納める義務は男丁(成人男性)だけでなく、口分田を与えられた女性や未成年(中男など)にも課された点が、成人男性の労働力や特産物を徴収する「庸」や「調」とは大きく異なる特徴である。徴収された租は、もみ付きの稲である「穎稲(えいとう)」の形で納められた。
地方財政を支えた「正税」としての機能と公出挙
中央の財源となった庸や調が都へ都送(運脚)されたのに対し、租として徴収された稲は、原則として地方の各国に置かれた国衙の正倉に貯蔵された。これを正税(しょうぜい)と呼び、地方官衙(国衙)の運営経費や、飢饉・災害に備えた備蓄米として用いられた。
しかし、この正税は単に備蓄されるだけでなく、春に農民へ種籾などを貸し出し、秋の収穫期に高い利息(当初は5割、のちに3割)を付けて回収する公出挙(くすいこ)の元手としても運用された。公出挙は本来、農民救済の意図を持っていたが、次第に地方財政を維持するための強制的な高利貸しへと変質し、実質的な増税となって農民の生活を厳しく圧迫する要因となった。
律令制の動揺と「租」から「官物」への変質
奈良時代後期から平安時代にかけて、過酷な税負担から逃れるための農民の浮浪・逃亡、あるいは戸籍上の性別を偽る偽籍(税負担の軽い女性として登録する行為)が横行した。これにより班田収授の実施は極めて困難となり、租を徴収する前提となる戸籍制度そのものが機能不全に陥った。
10世紀に入ると、朝廷は人身(個々の農民)を基準とした個別支配を断念し、有力農民(田堵など)に公田の経営を請け負わせ、土地の面積(名田)に応じて一括して課税する体制へと移行した。この過程で、かつての「租」は庸や調などの系譜を引く税とともに再編成され、国司が徴収する官物(かんもつ)へと姿を変え、やがて中世の荘園公領制における「年貢」へとつながっていくこととなった。