福島正則
【概説】
豊臣秀吉の子飼いの大名であり、「賤ヶ岳の七本槍」の筆頭として勇名を馳せた武将。関ヶ原の戦いでは東軍の主力として徳川家康の勝利に貢献して広島藩主となったが、のちに無断で城を修理したことが武家諸法度違反とみなされ、改易された。豊臣恩顧の有力大名が徳川幕府の集権化の過程で淘汰されていく歴史を象徴する人物である。
豊臣家への忠誠と関ヶ原の戦いでの決断
福島正則は尾張国に生まれ、母が豊臣秀吉の叔母であった縁から、幼少より秀吉に仕えた。1583年の賤ヶ岳の戦いにおいて顕著な武功を挙げ、「賤ヶ岳の七本槍」の筆頭として知られるようになる。その後も伊予今治、尾張清洲と加増を重ね、豊臣政権下で有力な大名としての地位を確立した。
しかし、秀吉の没後、豊臣政権内部で石田三成ら「文治派」との対立が深まると、正則は加藤清正らとともに「武断派」の急先鋒として三成と激しく対立した。1600年の関ヶ原の戦いにおいて、正則は豊臣家を守るためという大義名分のもと、徳川家康率いる東軍に味方した。会津征伐からの反転を決めた「小山評定」では、真っ先に家康支持を打ち出して東軍の結束を促し、本戦でも東軍の先鋒として宇喜多秀家勢と激戦を展開するなど、東軍勝利の最大の功労者となった。
広島藩主としての治世と大坂の陣
関ヶ原の戦いにおける抜群の軍功により、正則は安芸・備後(広島藩)49万8000石の大封を得た。広島城に入った正則は、領内の治水事業や新田開発、城下町の整備を積極的に進め、近世広島の基礎を築いた。一方で、厳島神社の保護に努めるなど、領国経営においては一定の成果を収めている。
しかし、家康が江戸幕府を開き、徳川氏による覇権が強固になるにつれ、豊臣恩顧の最大級の大名である正則の立場は微妙なものとなった。1614年からの大坂の陣において、正則は大坂城の豊臣氏への同情を示しつつも、幕命により江戸留守居役を命じられ、冬の陣・夏の陣ともに従軍を許されなかった。これにより、大坂城の豊臣氏が滅亡していく様を傍観せざるを得ず、豊臣家の武将としての正則の政治的立場は事実上失われることとなった。
「福島騒動」と幕府による改易の背景
1619年、広島地方を襲った水害により、広島城の石垣や櫓が破損した。正則は幕府への届け出を行ったものの、正式な許可を待たずに修復を進めてしまった。これが、2代将軍徳川秀忠の治世下で定められた武家諸法度の「諸大名居城修補の制限」に抵触するとして、幕府から厳しく追及された。正則は指示に従って修復箇所を一部破却したものの、幕府側はこれを「不十分」とし、最終的に安芸・備後の領地を没収(改易)する断を下した。
改易後の正則は、信濃国高井野(現在の長野県高山村)などに4万5000石に減封され、失意のうちに同地で生涯を終えた。死後、遺体の検死前に家臣が火葬したことを理由に、残された領地もさらに召し上げられている。
この一連の「福島騒動」による改易劇は、単なる法度違反の処罰にとどまらず、徳川幕府が強力な主従制と中央集権化(幕藩体制の確立)を推し進めるなかで、旧豊臣系の武断派大名を取り除くための政治的意図を含んだものと評価されている。正則の没落は、武力が支配した「戦国」から、法と官僚機構が支配する「徳川の平和(元和偃武)」へと時代が完全に移行したことを告げる象徴的な出来事であった。