社会契約論 (しゃかいけいやくろん)
【概説】
フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの著書、およびそれに基づく政治思想。国家の権力は統治者と人民との契約に基づくとするもので、人民主権や抵抗権(革命権)を唱えた。明治時代の日本に導入されると、自由民権運動の過激化・理論化に決定的な影響を与えた。
明治日本への導入と中江兆民による『民約訳解』
西洋の近代思想が急速に流入した明治初期、フランス留学から帰国した中江兆民によって、ルソーの『社会契約論』が邦訳された。兆民が1882年(明治15年)に刊行した『民約訳解』は、原文のニュアンスを当時の知識層に伝わりやすい格調高い漢文(漢文訓読体)で翻訳したものである。これにより、ルソーが説いた「自由・平等」や「人民主権(主権在民)」の思想は日本の知的階層に広く浸透し、兆民自身も「東洋のルソー」と称されるようになった。
自由民権運動の急進化と理論的武器
当時、板垣退助らを中心に展開されていた自由民権運動は、当初はイギリス風の緩やかな議会政治(議院内閣制)を志向するものが主流であった。しかし、ルソーの社会契約論が日本に紹介されると、運動はより急進的な民主主義へと傾斜していった。国家は君主のためにあるのではなく、人民の合意(契約)によって組織されるものであるという主張は、藩閥政府による専制政治(有司専制)を批判する強力な理論的武器となった。特に、人民の意志に反する政府に対する抵抗権や革命権の承認は、各地で発生した激化事件の思想的背景となり、植木枝盛らが作成した民主主義的な「私擬憲法」の起草にも深く関与した。
明治政府の警戒と弾圧
社会契約論が持つ革命的な性格は、天皇中心の国家体制構築を目指す明治政府にとって、治安を脅かす極めて危険な思想とみなされた。政府は集会条例や新聞紙条例などの法令を強化して、民権派の演説会や新聞を通じた言論活動を厳しく規制した。最終的に、政府は主権を天皇に置くドイツ(プロイセン)憲法を模範とした大日本帝国憲法を制定し、人民主権に基づく社会契約論の社会実装を拒絶した。しかし、この時期に蒔かれた民主主義の思想的種子は、後の大正デモクラシーや、戦後の日本国憲法における主権在民の原則へと受け継がれていくこととなった。