産業合理化
【概説】
昭和初期に浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相が推進した、日本経済の体質改善と国際競争力強化を目指した経済政策。金解禁に伴う輸出減少に対抗するため、企業の操業短縮、賃金引き下げ、企業合同などを国家主導で促し、生産コストの削減を図った。
金解禁の断行と産業合理化の必要性
1929(昭和4)年に成立した浜口雄幸内閣は、長年の懸案であった金輸出解禁(金解禁)の断行を最優先課題に掲げた。蔵相の井上準之助は、緊縮財政によって国内の物価を引き下げ、実態よりも円高水準となる「旧平価」での金解禁に耐えうる経済体質を構築しようとした。この金解禁による円高は、日本の輸出産業に打撃を与えることが予想されたため、企業の生産コストを劇的に引き下げて国際競争力を高める必要が生じた。これが「産業合理化」政策が導入された背景である。
国家主導の統制と「重要産業統制法」
1930(昭和5)年1月に金解禁が断行されると、同年に商工省内に臨時産業合理局が設置され、産業合理化運動が本格化した。この政策のもとでは、科学的管理法の導入による生産効率の向上や、過当競争を防ぐための操業短縮、さらに企業合同やカルテルの結成が推進された。その法的裏付けとなったのが、1931(昭和6)年に制定された重要産業統制法である。同法は、政府が指定した重要産業において、カルテルの結成や協定の遵守を国が勧告・強制できるものであり、自由主義経済から国家による統制経済への移行を示す象徴的な転換点となった。
昭和恐慌の深化と社会への甚大な影響
産業合理化は、皮肉にも世界恐慌の波及(昭和恐慌)と重なったことで、国民生活に深刻な犠牲を強いることとなった。企業が生き残りのために行った操業短縮や「合理化」の実態は、激しい人員整理(解雇)や賃金引き下げであった。これにより、都市部では失業者が溢れかえり、労働争議が頻発した。大企業(財閥など)は合理化によって近代化を遂げ、のちの輸出回復の足がかりを築いたものの、中小企業や労働者、そして農山漁村は未曾有の窮乏に陥り、軍部台頭や政党政治への不信感を煽る温床となった。