白紙還源 (はくしかんげん)
【概説】
1941年10月の東条英機内閣発足に際し、昭和天皇が提示した、既定の開戦方針にとらわれず日米交渉をゼロから再検討することを求めた命令。対米開戦へと傾く陸軍主導の国策にブレーキをかけ、平和外交交渉による解決を模索した宮中側の最後の試みであった。
「帝国国策遂行要領」の決定と近衛内閣の崩壊
1941年(昭和16年)後半、日米関係は極度に悪化していた。同年7月の南部仏印進駐に対抗して、アメリカが日本への石油輸出を全面的に禁止したため、日本は経済的・軍事的に追い詰められることとなった。こうしたなか、同年9月6日の御前会議において「帝国国策遂行要領」が決定される。これは、10月上旬(のちに10月下旬)までに日米交渉がまとまらない場合、直ちに対米(および英蘭)開戦を決意するという、事実上の期限付き開戦決意であった。
第3次近衛文麿内閣は、この期日が迫るなかで日米首脳会談による事態打開を模索したが、アメリカ側の硬い姿勢を崩せなかった。一方で、陸軍大臣であった東条英機は「外交の期限は切れた」として主戦論を主張し、近衛との対立が激化。交渉継続を困難とみた近衛内閣は、10月16日に総辞職へと追い込まれた。
昭和天皇の「白紙還源」命令と東条内閣の発足
近衛内閣の総辞職後、後継首相の選定にあたった内大臣の木戸幸一は、陸軍の暴走を抑えるには、陸軍の主流派であり皇室への忠誠心が極めて強い東条英機に首相を任せるほかないと判断した。そして東条を首班に推薦するにあたり、天皇の意志による強力な歯止めをかけることを画策した。
10月17日、昭和天皇は東条に組閣を命じる(大命降下)際、内大臣の木戸を通じて、9月6日の御前会議における決定(帝国国策遂行要領)にとらわれることなく、対米交渉を「白紙に還元」して慎重に国策を再検討するよう命じた。これが「白紙還源」(あるいは白紙還源の聖旨)と呼ばれる命令である。これにより、いったん決定された開戦へのスケジュールは一時的にリセットされることとなった。
国策の再審査と決裂への道
天皇の命令を受けた東条は、首相に加え陸相と内相を兼任して強力な権力を握り、政府・大本営連絡会議において連日のように国策の再検討(「白紙還源」に基づく再審査)を行った。東条自身も、天皇の意思を遵守するために外交交渉による妥協点を探り、対米譲歩案である「甲案」「乙案」を作成して日米交渉に臨んだ。
しかし、日中戦争における中国からの全面撤兵を求めるアメリカと、満州事変以降の権益保持を譲らない日本陸軍との間の溝は埋まらなかった。最終的に11月26日、アメリカ側から日本軍の中国・仏印からの無条件全面撤退などを要求する「ハル・ノート」が提示されると、日本側はこれを最後通牒と受け止め、外交交渉による解決を断念。12月1日の御前会議において、天皇の臨席のもと正式に対米開戦が決定され、12月8日の真珠湾攻撃(太平洋戦争の勃発)へと至ることとなった。結果として「白紙還源」の試みは、開戦をわずかに先延ばしにする以上の効果を持たなかった。