東条英機
【概説】
太平洋戦争開戦時の内閣総理大臣であり、陸軍大臣や内務大臣などを兼任して強力な戦時体制を指導した陸軍軍人。1944年のサイパン島陥落により退陣するまで日本の戦争遂行を主導し、敗戦後は極東国際軍事裁判(東京裁判)においてA級戦犯として処刑された。
陸軍における台頭と統制派の指導者
東条英機は陸軍軍人の家庭に生まれ、陸軍士官学校および陸軍大学校を卒業してエリートコースを歩んだ。1930年代の陸軍内部で激化した派閥抗争においては、永田鉄山らとともに統制派の中心人物として活動した。1936年の二・二六事件以降、対立する皇道派が粛清されて統制派が陸軍の実権を握ると、東条も関東軍参謀長などに就任し、満州国での統治基盤の強化や対ソビエト連邦の軍備拡張に尽力した。その後、第2次および第3次近衛文麿内閣で陸軍大臣を務め、日独伊三国同盟の締結や仏印進駐など、強硬な対外政策を強力に推進した。日米交渉が行き詰まる中、軍部の強硬意見を代弁して対米開戦を強く主張し、事態の主導権を握っていった。
太平洋戦争の開戦と「東条幕府」
1941年10月、日米交渉の難航から近衛内閣が総辞職すると、対米戦争回避の最後の望みを託した昭和天皇の意向もあり、東条が内閣総理大臣に任命された。しかし、軍部の強硬姿勢を抑えることはできず、同年12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦した。東条は内閣総理大臣でありながら陸軍大臣と内務大臣を兼任するという異例の体制を敷き、軍事と国内の治安維持を同時に掌握した。緒戦の勝利で国民の熱狂的な支持を集めると、1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)では大政翼賛会の推薦候補を圧倒的に当選させ、議会をも完全に統制下に置いた。この極度に権力が集中した独裁的な戦争指導体制は、かつての幕府になぞらえて「東条幕府」とも称された。
戦局の悪化と内閣総辞職
1942年6月のミッドウェー海戦での大敗を契機として、戦局は次第に日本にとって不利なものへと転換していった。ガダルカナル島の攻防戦やインパール作戦などにおいて、補給を軽視した無謀な作戦により甚大な犠牲が生じた。東条は危機を乗り切るため、1944年には参謀総長をも兼任し、軍政と軍令のトップを一人で独占するという前代未聞の権力集中を図った。しかし、1944年7月に絶対国防圏の要衝であったサイパン島が陥落すると、絶対的な権力を持っていた東条に対する不満が表面化した。重臣層や軍内部からの倒閣運動が激化し、ついに東条内閣は総辞職に追い込まれた。
極東国際軍事裁判(東京裁判)と歴史的評価
1945年8月の日本の敗戦後、東条は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によってA級戦犯の容疑者として指名された。逮捕直前に拳銃自殺を図るも未遂に終わり、極東国際軍事裁判(東京裁判)に出廷することとなった。法廷において東条は「日本の自衛と生存のための戦争であった」と国家の立場を弁護しつつも、開戦の最終的な責任は総理大臣であった自らにあると明言し、昭和天皇への戦争責任の波及を防ぐ態度を貫いた。1948年に死刑判決を受け、同年12月に絞首刑に処された。東条英機は、太平洋戦争という未曾有の惨禍を引き起こした日本の軍国主義体制を象徴する人物として、今日もなお国内外において重大な歴史的評価と議論の対象となっている。