重要産業統制法
【概説】
昭和恐慌期において、政府が産業合理化を推進するために制定した法律。不況に苦しむ主要産業においてカルテル(生産や価格に関する協定)の結成を促し、国家による経済統制を本格化させる契機となった。
昭和恐慌と産業合理化の推進
1929年に発生した世界恐慌の波が日本に及び、1930年には深刻な昭和恐慌が引き起こされた。当時の濱口雄幸内閣は、金解禁の断行による緊縮財政とデフレ政策をとっていたため、国内の景気は急速に悪化し、物価の大暴落や操業短縮が相次いだ。
このような状況下、政府と財界は日本企業の国際競争力を高め、不況を切り抜けるための「産業合理化」を唱えた。これは、生産技術の近代化や経営の効率化、さらには過度な競争を抑制するための企業合同やカルテルの結成を意味していた。1930年にはその推進母体として商工省内に臨時産業合理局が設置され、国を挙げた産業再編成が本格化した。
カルテルの保護と国家の介入
産業合理化の目玉として1931年3月に制定されたのが重要産業統制法である。この法律は、綿紡績、製紙、セメントなど政府が指定した重要産業において、同業者による生産制限や販売価格の維持といったカルテル(共同行為)の結成を法的に容認・保護するものであった。
最大の特徴は、カルテル結成を単に容認するだけでなく、参加企業の過半数(または生産高の大部分)の合意がある場合には、非加盟の事業者(アウトサイダー)に対しても、主務大臣の命令によってその協定に従わせる強制権(統制命令権)を認めた点にある。これにより、過当競争による価格下落を防ぎ、産業界の安定を図ることが意図された。
自由主義経済から統制経済への転換
重要産業統制法は、明治以来の日本が維持してきた市場競争重視の自由主義的な経済体制を大きく揺るがすものであった。不況克服という名目ではあるものの、国家が直接私企業の活動に介入し、独占的なカルテル協定を強制することは、その後の経済政策の方向性を決定づけることとなった。
同年に満州事変が勃発し、やがて日本が準戦時体制へと移行していく中で、この法律による産業統制の経験は蓄積され、のちの重要産業団体令(1941年)や戦時下の国家統制経済へと発展していく。その意味で、重要産業統制法は1930年代の日本経済が「統制経済」へと向かう画期となった極めて重要な法制度である。