治安警察法第5条
【概説】
1900年(明治33年)に制定された治安警察法において、特定の階層の政治活動を厳しく制限した規定。女性、未成年者(学生・生徒)、軍人・警察官、宗教者などの政治結社への加入や、政治集会への参加・発起を禁止した。特に近代日本における女性の政治的・社会的権利を著しく抑圧した条項として知られる。
治安警察法第5条の制定背景と制限対象
1900年、第2次山県有朋内閣は、高まりつつあった社会主義運動や労働運動、市民による政治活動を抑え込むため、従来の集会及政社法を強化する形で治安警察法を制定した。その中心的な弾圧規定の一つが第5条である。
第5条では、軍人、警察官、神職・僧侶などの宗教者、教員、学生・生徒をはじめとする未成年者、そして女性に対し、政治結社への加入を禁止した。さらに未成年者と女性に対しては、政治的な演説会や集会に聴衆として参加することや、そうした集会を主催(発起)することすら一律に禁じた。これは、国家の秩序維持や、軍事・教育・宗教といった分野の「非政治化」を名目としていたが、実質的には体制維持のための広範な思想統制であった。
「良妻賢母」主義の法制化と女性への抑圧
治安警察法第5条は、特に女性の権利を著しく制限した点で歴史的に重視される。明治政府は「良妻賢母」を近代女性の理想像として掲げ、女性を私的領域である「家庭」に固定しようとした。第5条は、女性が公的領域である「政治」に関わることを法的に遮断し、ジェンダー規範を強制するための強力な手段であった。
この規定により、女性は政治演説を聴きに行くことすら犯罪とされ、社会問題や自らの権利について公に議論する場を奪われた。1911年に平塚らいてうらが創刊した文学結社『青鞜』の運動などが、次第に女性の地位向上や社会改革を訴えるようになると、この第5条が活動の大きな障壁として立ち塞がることとなった。
大正デモクラシーと「五条改正運動」の実績
第一次世界大戦後の大正デモクラシー期に入ると、女性の政治的権利の獲得を目指す動きが本格化した。1920年(大正9年)、平塚らいてうや市川房枝、奥むめおらは新婦人協会を設立し、治安警察法第5条の改正(特に女性の集会参加・発起の自由の獲得)を求める運動を開始した。
彼女らは全国的な署名活動を展開し、帝国議会の議員たちへの執拗なロビー活動(請願運動)を行った。この運動が実を結び、1922年(大正11年)に治安警察法第5条の一部が改正され、女性の政治集会への参加・発起の自由が認められた。これは日本の女性運動史における画期的な勝利であったが、政治結社への加入(政党への入党など)の禁止は依然として維持された。女性の完全な参政権の獲得と治安警察法の完全廃止は、1945年の敗戦を経た戦後改革まで持ち越されることとなる。