治安警察法
【概説】
1900年(明治33年)、労働運動や社会主義運動、政党活動などを厳しく取り締まるために第2次山県有朋内閣が制定した治安立法。従来の「集会及政社法」に代わって制定され、集会・結社・言論の自由を大幅に制限し、戦前の日本の社会運動に大きな制約を与えた。
制定の時代背景
日清戦争後の日本では、産業革命が進展して資本主義が本格的に発達する一方で、劣悪な労働環境を背景に労働問題が深刻化していた。1897年(明治30年)には高野房太郎や片山潜らによって労働組合期成会が結成され、日本鉄道会社の機関手らによるストライキなど、労働争議が頻発するようになった。
こうした中、官僚閥を率いる第2次山県有朋内閣は、高まりを見せる労働運動や、台頭しつつあった社会主義運動が国家の体制や安寧秩序を脅かすものとして警戒を強めた。同時に、政党勢力の拡大を抑え込む意図もあり、従来の「集会及政社法」を全面的に改定・強化する形で、1900年(明治33年)に治安警察法を制定した。
法の内容と厳しい規制
治安警察法は、集会や結社に関する警察の強力な介入権限を定めたものであった。中でも社会運動に大きな影響を与えたのが、第5条と第17条である。
第5条では、軍人・警察官・教員・学生・未成年者・女性が政治的結社に加入すること、および政治集会に参加することを全面的に禁止した。これにより、これらの人々は合法的な政治活動の場から完全に排除されることとなった。
また、第17条では、労働者が労働条件の改善を求めて団結することや、同盟罷業(ストライキ)を誘発・扇動する行為を犯罪として規定した。これは事実上のストライキ禁止条項であり、初期の労働組合運動にとって致命的な打撃となった。
社会運動への弾圧と「冬の時代」
この法律の施行により、日本の社会運動は厳しい弾圧に晒されることとなった。1901年(明治34年)に幸徳秋水や片山潜らが日本初の社会主義政党である社会民主党を結成した際も、治安警察法に基づき、結成当日に即日禁止の処分が下された。また、足尾銅山鉱毒事件における田中正造らの抗議運動も、同法によって厳しく取り締まられた。
警察は集会に臨検(立ち入り)し、演説の内容が「安寧秩序」を乱すと判断すれば「弁士中止」や「集会解散」を命じることができた。このように、治安警察法は反体制的な思想や運動の芽を摘み取るための強力な武器として機能したのである。
一部改正と終戦に伴う廃止
大正時代に入ると、大正デモクラシーの高揚を背景に、治安警察法の撤廃・改正を求める運動が活発化した。中でも平塚らいてうや市川房枝らが結成した新婦人協会の請願運動により、1922年(大正11年)には第5条が改正され、女性の政治集会への参加が解禁された(結社権の禁止は存続した)。また、労働運動の激化に対応して、1926年(大正15年)に労働争議調停法が制定されたのに伴い、ストライキを制限していた第17条が削除された(代わりに暴力行為等処罰ニ関スル法律が制定された)。
しかし、1925年(大正14年)により過酷な治安維持法が制定されると、両法は車の両輪として思想・言論弾圧の要を担い続けた。治安警察法が最終的に効力を失ったのは、太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20年)10月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による「人権指令」(政治的自由の制限の撤廃に関する覚書)に基づく廃止措置によるものであった。