林銑十郎 (はやしせんじゅうろう)
【概説】
1937(昭和12)年に内閣を組織した、陸軍大将出身の第33代内閣総理大臣。政党勢力を排除した「非政党本位」の挙国一致内閣を目指したが、予算成立直後に衆議院を突如解散する挙に出た。この「食い逃げ解散」に伴う総選挙で大敗し、わずか4ヶ月の短命政権で退陣に追い込まれた。
「越境将軍」としての台頭と陸相時代
石川県出身の陸軍軍人であった林銑十郎は、1931(昭和6)年の満洲事変の際、朝鮮軍司令官の地位にいた。彼は政府や参謀本部の命令を待たず、独断で部隊を鴨緑江を越えて満洲へと派遣し、「越境将軍」としてその名を知られるようになった。この行為は天皇の統帥権を侵す重大な軍紀違反(統帥権干犯)であったが、当時の第2次若槻礼次郎内閣がこれを追認したため、その後の軍部の独走・暴走を許す悪しき前例となった。
その後、陸軍大将へと昇進した林は、斎藤実内閣および岡田啓介内閣において陸軍大臣を歴任した。陸軍内部の派閥抗争では「統制派」の立場をとり、対立する「皇道派」の指導者であった真崎甚三郎教育総監を更迭。これがのちの相沢事件や二・二六事件を引き起こす伏線となった。また、陸相在任時には、軍部の政治的影響力を強める一因となった軍部大臣現役武官制の復活に向けた動きを主導するなど、軍国主義化の流れを加速させる役割を果たした。
「非政党本位」内閣の成立と挫折
1937(昭和12)年1月、広田弘毅内閣が総辞職したのち、後継の宇垣一成の組閣が陸軍の非協力(陸相の推薦拒否)によって流産すると、陸軍の意向に沿う人物として林に組閣の大命が降下した。こうして誕生した林内閣は、政党の政治的影響力を徹底的に排除する方針を掲げ、閣僚に政党員の入閣を認めない「非政党本位」を貫いた。
林は財界や官僚から人材を登用し、結城豊太郎を蔵相に、佐藤尚武を外相に迎えて「挙国一致」の体制を整えようとした。しかし、議会を軽視し政党を敵視するその強硬な姿勢は、当時の二大政党であった立憲民政党と立憲政友会の双方から激しい反発を招くこととなった。
「食い逃げ解散」と政権の崩壊
林内閣は、最大の懸案であった昭和12年度予算案を成立させるため、議会に対しては融和的な態度を装った。しかし、政党側の協力によって予算案および重要法案が成立した直後の1937年3月31日、林は突如として衆議院を解散した。この強引な政治手法は、予算という実利だけを得て政党への約束を反故にしたとして、世論や政党から「食い逃げ解散」と激しく糾弾された。
林の狙いは、解散総選挙によって既存の政党勢力を打倒し、軍部に協力的な親政府の新党を結成することにあった。しかし、同年4月30日に行われた第20回衆議院議員総選挙の結果、政府を支持する勢力は壊滅的な惨敗を喫し、民政党・政友会の既存政党に加え、無産政党である社会大衆党が躍進する結果となった。議会における支持基盤を完全に失った林内閣は、政権維持を断念して同年6月4日に総辞職。在任期間はわずか123日であった。この独裁的な政権運営の失敗は、政党政治の抵抗力を示すと同時に、軍部主導の政治体制がいかに民意から乖離していたかを浮き彫りにした。