林銑十郎内閣 (はやしせんじゅうろうないかく)
【概説】
広田弘毅内閣の総辞職を受け、1937年2月に成立した陸軍大将・林銑十郎を首班とする短命内閣。徹底した政党排除の姿勢を貫いて議会との対立を深め、予算成立直後に衆議院を解散する「食い逃げ解散」を強行したものの総選挙で大敗し、わずか4ヶ月で退陣に追い込まれた。
宇垣組閣の流産と林内閣の発足
1937年(昭和12年)1月、広田弘毅内閣は衆議院本会議での「腹切り問答」(政友会の浜田国松議員と寺内寿一陸相の対立)を契機に、軍部の圧力によって総辞職を余儀なくされた。後継首相として元陸軍大臣の宇垣一成に組閣大命が下ったが、陸軍内のファッショ勢力(統制派)は宇垣の軍縮実績などを嫌い、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍大臣の推薦を拒否した。これにより宇垣組閣は流産となり、代わって陸軍大将であり、満州事変時に「越境将軍」として知られた林銑十郎が首班に指名された。
政党排除の姿勢と「食い逃げ解散」
林銑十郎は、軍部の意向を強く反映し「祭政一致」や「挙国一致」を標榜した。しかし、その実態は既成政党を徹底的に敵視するものであった。林は組閣にあたり、入閣する政党員に対して離党を要求するなど、政党排除(政党無視)の姿勢を鮮明にした。当然ながら、議会の二大政党であった立憲政友会と立憲民政党、さらには革新政党の社会大衆党からも激しい反発を招くこととなった。
議会で孤立した林内閣は、1937年度予算案などを辛うじて成立させた直後の3月31日、突如として衆議院を解散した。予算という実利だけを手中に収め、政党側に不意打ちを食らわせる形で解散を強行したこの暴挙は、世論や政党から「食い逃げ解散」と激しく非難された。
内閣総辞職とその歴史的影響
解散に伴って1937年4月に実施された第20回衆議院議員総選挙において、林内閣を支持する与党勢力は壊滅的な惨敗を喫した。一方で、反政府を掲げた民政党・政友会の既成二大政党が議席の過半数を維持し、さらに労働者や無産市民の支持を集めた社会大衆党が37議席へと躍進した。この結果は、軍部主導の政治に対する国民の強い批判の表れであった。
選挙後も林は政権維持を画策したが、支持勢力を完全に失ったことで万策尽き、同年6月に総辞職した。在任期間はわずか4ヶ月(122日)であった。林内閣の崩壊後、挙国一致の期待を担って第一次近衛文麿内閣が成立するが、その直後に盧溝橋事件が発生し、日本は本格的な日中戦争(全面戦争)の泥沼へと突き進んでいくこととなる。