朝鮮民主主義人民共和国
【概説】
1948年9月、朝鮮半島北部にソ連の支援のもと成立した社会主義国家。日本の敗戦による植民地支配の終焉後、米ソ冷戦を背景に南北分断が固定化する中で誕生し、その後の朝鮮戦争や拉致問題などを通じて日本の戦後史に多大な影響を与え続けている。
日本の敗戦と分断国家の誕生
1945年8月の日本のポツダム宣言受諾により、35年間にわたる日本の朝鮮半島統治は終焉を迎えた。しかし、独立した統一国家の樹立は直ちには実現せず、北緯38度線を境界として南部をアメリカ軍、北部をソ連軍が分割占領することとなった。当初は米英ソ中による信託統治を経て独立させる構想であったが、東西冷戦の激化によって米ソの対立が深まり、統一政府の樹立は暗礁に乗り上げた。
その結果、1948年8月に南部に親米の大韓民国(韓国)が成立したのに対抗し、同年9月9日、北部にソ連の支援を受けた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国された。初代首相には抗日パルチザン闘争の指導者であった金日成が就任し、一党独裁体制に基づく社会主義国家の建設が開始されたのである。
朝鮮戦争と日本の戦後復興・再軍備
1950年6月、北朝鮮軍が武力による半島統一を目指して北緯38度線を越え南進し、朝鮮戦争が勃発した。国連軍を主導するアメリカと、義勇軍を派遣した中華人民共和国の介入により、戦争は国際的な大戦争へと発展した。
この戦争は、隣国である日本の戦後史に決定的な影響を与えた。日本はアメリカ軍の出撃・補給拠点となり、膨大な軍需物資の調達やサービス需要が生み出された(朝鮮特需)。これにより、敗戦直後の深刻な経済危機(ドッジ・ラインに伴うデフレ)から脱却し、高度経済成長への足がかりを掴むこととなった。また、在日米軍が朝鮮半島に出動して生じた国内の治安維持の空白を埋めるため、連合国軍最高司令官マッカーサーの指令によって警察予備隊(後の自衛隊)が創設され、日本の再軍備への転換点となった。同時に、アメリカは日本の戦略的価値を再評価し、サンフランシスコ平和条約による単独講和と日米安全保障条約の締結を急ぐことになったのである。
冷戦下の日朝関係と在日朝鮮人問題
日本政府は1965年に韓国と日韓基本条約を締結して国交を正常化し、韓国を「朝鮮半島における唯一の合法的な政府」と承認した。そのため、日本は北朝鮮とは正式な国交を持たないまま戦後史を歩むこととなった。
一方で、日本国内には植民地時代に渡日し、戦後も日本に留まった多数の在日朝鮮人が存在していた。1950年代末からは、北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝し、在日朝鮮人とその日本人配偶者らを北朝鮮へと移住させる帰国事業が両国の赤十字社を通じて行われた。しかし、帰国者の多くは過酷な生活環境や政治的迫害に直面し、後に深刻な人権問題として顕在化した。また、日本国内では在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)が結成され、北朝鮮を支持する立場から独自の活動を展開し、日朝間の窓口的な役割を担うこともあった。
冷戦終結後の懸案と拉致問題
1990年代初頭の冷戦終結を受け、自民党の金丸信らによる訪朝を契機に日朝両国間で国交正常化交渉が開始された。しかし、北朝鮮の核開発疑惑や日本海に向けた弾道ミサイルの発射、さらに日本近海での不審船事件などが相次ぎ、両国間の緊張は高まった。
とりわけ日朝間の最大の懸案となったのが、1970年代から80年代にかけて発生した日本人拉致問題である。長らく北朝鮮側は拉致の事実を否定していたが、2002年に小泉純一郎首相が電撃的に訪朝し、金正日国防委員長との間で第1回日朝首脳会談が実現した際、北朝鮮側は初めて拉致を認めて謝罪した。この会談で国交正常化の目標を掲げた「日朝平壌宣言」が調印され、5人の拉致被害者が帰国を果たしたが、その他の被害者の安否や真相究明については北朝鮮側の不誠実な対応が続き、交渉は再び停滞した。現在に至るまで、拉致問題の完全解決と、北朝鮮の核・ミサイル開発の放棄は、日本の外交・安全保障上の最重要課題として残されている。