昭和製鋼所 (しょうわせいこうじょ)
【概説】
南満洲鉄道(満鉄)が設立した鞍山製鉄所を前身とし、のちに独立・改組して誕生した満洲最大の鉄鋼メーカー。満洲国建国後は国策的な増産体制のもとで一貫製鉄を確立し、日本の軍備拡張と重化学工業化を支えた一大拠点。
鞍山製鉄所から昭和製鋼所への改組
昭和製鋼所のルーツは、日露戦争後に日本が獲得した南満洲の権益の中心である南満洲鉄道(満鉄)が、1918年に操業を開始した鞍山(あんざん)製鉄所にある。鞍山周辺は豊富な鉄鉱石を産出したが、貧鉱(鉄分の含有量が低い鉱石)が多かったため技術的困難に直面し、当初の経営は赤字が続いていた。
大正末期から昭和初期にかけて、満鉄は製鉄部門の独立による経営合理化を模索し、1929(昭和4)年に「昭和製鋼所」を設立した。当初は、日本国内の製鉄業者との競合回避や、昭和恐慌による需要低迷、さらには製鉄設備を日本国内(朝鮮の親出や臨海部など)に移転させるか否かの議論(移転問題)が生じたため、実質的な稼働は遅れることとなった。
満洲事変と一貫製鉄体制の確立
1931(昭和6)年に満洲事変が勃発し、翌1932年に満洲国が建国されると、昭和製鋼所を取り巻く状況は劇的に変化した。関東軍は「日満経済一体化」のもとで満洲の重工業化を急ぎ、昭和製鋼所を大陸における兵器および産業資材の供給基地として位置づけたのである。
これにより、昭和製鋼所は鞍山での操業継続と大規模な拡張計画を決定した。貧鉱の選鉱技術(磁力選鉱法)の改良に成功したことも追い風となり、1935(昭和10)年には銑鉄(鉄の原料)の製造から、鋼(はがね)の製造、さらに鋼材へと加工する一貫製鉄体制を確立。満洲国内の鉄道建設や、日本国内の製鋼業への原料供給源として急速に発展していった。
「満業」への合流と戦争末期の破綻
1937(昭和12)年に日中戦争が勃発すると、戦時統制経済が強化され、満洲の産業開発は鮎川義介率いる日産コンツェルンが満洲に移転して設立した満洲重工業開発(満業)へと委ねられることとなった。1938年、昭和製鋼所は満鉄傘下から離れ、満業の子会社として組み込まれた。
日中戦争から太平洋戦争期にかけて、軍部からの鋼材増産要求は過酷を極めた。昭和製鋼所は増産を続けたものの、戦争の激化に伴う日本本土への海上輸送路(商船隊)の遮断、炭鉱や鉱山での労働力不足、さらには1944(昭和19)年以降の米軍爆撃機(B-29)による空襲によって、その生産力は著しく衰退していった。
1945(昭和20)年8月、ソ連軍の満洲侵攻と日本の敗戦により、昭和製鋼所は操業を停止した。戦後、主要な設備はソ連軍によって戦時賠償として持ち去られたが、残された施設は中国共産党政府に接収され、現在の中国を代表する鉄鋼企業である「鞍山鋼鉄集団」へと再建・発展を遂げることとなる。